動物と干渉と9と1



 生態系(ここでは閉じた物を指さない)を把握して個々の生物に向き合って保全や繁殖の補助をする時、私達は飼育するのでない限りこの仕事が生涯終わらない事を悟る。

 現代では動物飼育を行う時、大凡のマニュアルを入手する事が過去数十年に比べて飛躍的に楽になった。しかし実際に接する機会は海外事情を無視すれば格段に減っている。自然から遠ざかったと錯覚した原始人達はそれを文明と呼ぶが、自然を押し分けただけに過ぎない。その閉鎖的な文明はやがて自らの出自を忘れて同胞までもをマニュアルさえ守っておれば完璧だと思い込みマニュアルで扱うようになって行く。例えば5日働いても2日休ませればもう5日分の労働力が湧いてくる、とか。

 確かにマニュアル上生存可能な環境条件は記載されているかもしれないが、だとしたらそれのみを求めて動物は行動するだろうか。
 動物は定住する事を殆どしない。動物が巣を作る場合、人間の思う家とは違って子育てに特化させた施設として扱われる。それ以外の生活を人間がどれほど把握出来ているだろうか。
 昨今では鹿、ハクビシン、タヌキ、ハヤブサ、燕、鼠、鳩、鴉、雀、穴熊、etc等の動物が都市生活に適応して入り込んでいる。この現象が起こる前に予測できた学者はどれほどいるだろうか。
 私は生物を理解する時にはどれだけ座学を積んでも必ずその後の観察が9割を占める事になると思っている。勢い、学者が未来の学者を育成しながら自分も観察へ赴くなど業務量と費用面と時間を考慮すれば土台不可能だろうと思う。
 生物観察をしているとそれを無駄と見做して時間を区切って管理しようとする人も中にはいるが、こういうのは最早話にならない。(少し前に似たような事で気象庁がニュースになったりした気がする。)つまり最近喧伝されている持続可能な開発目標(SDGs)に沿うならこう言った人員は採算度外視で常に雇われるべき貴重なものである。

 これに連なって愛玩動物の扱いにも言及できる。愛玩動物は基本的に無害であっても都市生活で自由に動けるケースは稀であるし、雑食性であってもペットフードのみの一生だってありえる。現代ではこれを憂いて運動場と専用おやつを生み出したりしていると思うが、これは捕食行動を態々分割している可能性がある。当然多様な食性を持つなら獲物に順応して獲得の手法(通常親が子供へ教える)を変えなくてはいけないので野生では脳の発達にも影響を与えているだろう(予想)が都市ではここまで行けていない気がする。ここ辺りが人間の限界だろうと愚考する。

 人間が法的にどう記載したとて認知がねじ曲がっているなら資源の無駄でしかない。環境を保全する、とか森を豊かに、と言う時に目標が酷く曖昧か実質無いのをよく広告で見かけるがこれらは観察を永遠に続けられるのだろうか。恐らく間接的にはペットの生活費が減るかもしれないのにビニール袋を有料化して終わる程度かもしれない。
 この調子で莫大な費用と高いテクノロジーを惜しまずに自然に資する形で還元など出来るのか怪しい。観察要員の人件費さえ出さないのに。

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