学校変革の刹那的夢想について。日記。

 私が大仰に書くと枝葉末節が恰も根幹を表しているかのように写ってしまうかもしれないが、発達障害やギフテッドを扱った記事を読んでいると学校生活、延いては学校変革が肝要とするものを結構見る気がする。

 しかし読み込んでいけば無意識ではあろうものの、福祉の概念と立場を異にする新自由主義の設計万能思想を根源に据えているような気がする。

 学校生活では確かに凹凸を抱えた人間は生きづらいのだろうけど学校生活以外で違和感を感じて、専門医の受診まで漕ぎ着ける人間がどれだけいるのか甚だ疑問に思う。

 ギフテッドや発達障害として人里離れた秘境に築かれた村に生まれていたとして、そこに学問が存在しなければ発見は困難ではないのか。
 というのもギフテッドについて取り扱っている記事を読んでいると難しい問題を投入されて答えを出すシュレッダー的受動姿勢が多いと感じたし、発達障害に関しては人同士の感情的摩擦に多く遭遇しているように思えたからだ。

 この姿勢・摩擦が家庭内で消化されようとした時、学校で消化される場合とは違う経緯を辿ると予想した場合、凄惨な事件に発展するという懸念や個人の尊厳が損なわれるというリスクも考えられる。

 この場合必要なのは学校を改革するよりも幾つかの判断基準を地域社会の資源として確保しておく事ではないかと思われる。
 そうすれば仮に学校に馴染めずとも生活空間が快適ならその時初めて学問の導入が許される条件が整うので、個別指導のあり方も踏まえて検討が容易になるのではないかと愚考した。

 学校全体で何かを変えようとすればそれだけ多くの人間と権力を相手どる事になるし、いずれはこの形骸化した民意の塊に向かって誰とも分からない相手に社会変革を愬える羽目になる。
 欲望に基づいた同意だけが羅針盤となって人々を引き摺る社会だからこそ市場価値に補助を賜わそうという試みもあるようだが、本当に困るのは経験としての資源を一切獲得できない貧しい生活空間であり、この影響は一代限りでは済まされない。
 冗長に続ければ母性本能神話というワードが印象的だったが、経験を積めない・共有できないというのは国家全体にあらゆる形で遺恨を齎すのだと熟思わされる。

 これだけ歴史的に長く続いた国家が家庭内で教育さえ賄えないというのは、教育を通して人間という存在を知る機会が未だに回収されていない浪費状態という事でもあり、これを使わずして福祉の概念を二度手間で語ったところで遅きに失したと言わざるを得ない。
 有機的人間観の問題は根深いと感じる。

 わざわざ傷付く群れ方じゃなくても、社会的動物はやっていけていたと思わないではないが、ここまで来たのならいっそのこと国家規模の崩壊後にどう建て直すかを検討した方が良いのかもしれない。

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