応用行動分析の有機的人間事情について。雑記。

 教育に悩む方々の心労を数字に起こすなど到底できないので批判の意図はない。

 けれど人間について安易にアップデートしていけるなどという新自由主義的な設計妄信に向かうなら、何らかの工夫を要するようにも思える。

 私的嗜好の中には人間の性質の発見も含まれていて、よく調べたり、偶々であっても流れてくるターげティング的な動画を釣られて見てしまう時がある。その派生で応用行動分析についての記事を幾つか読んでみると過ぎた肥料と言って障りが無い程に玉石混交の様相だった。

 私的な偏見でいえば導入部分から反出生主義に軍配があがるような酷いものもあって、子供が駄々をこねる理由が学習にあるとしているものがあった。応用行動分析の領域ではこれを無視する等々で徐々に解消するのだそうだが、理由は学習ではなく親が子供を産んだ事に起因するだろうと思った。

 子供の行動に異議を唱えることは親の行動に異議を唱える事と同義で、物を心ゆくまで買い与えられない財力は自己の変容が十分でもなお必然性をもった結果であったか。驕る事や尊大になる事が問題ならそこに焦点を当てて無視するなりすれば良いのではないのか。勉学に身を入れなくなるなら科学的手法を用いるのはその時ではないか。

 他者の人生を誘導しようと躍起になる前に己が五感で感知できる領域の情報の質について、それこそ分析などが必要とされるのではないか。そうした哲学的基盤の上で生きている人間は、他者よりも自己の行動に焦点を当てて少しづつ科学的手法も応用しながら成長するのではなかったか。

 誰が誰のどんな様子に対して変容が必要だと判断できるのか。この分別ができない状態が他責姿勢へと繋がるのは想像に難くない。

 最近は言葉や文字を文面そのままに解釈するというネタが大真面目な場面で使われる事も多いと感じるが、本来それは文脈(前後関係)を欠いたジョークに近いもので決して実生活に応用などして誰かが至福に恵まれるものではない。


 続いて着目したのは、恐らく応用行動分析は誤って使えば損得の観念を強化して廃人を生む可能性もあるのではないかという点。

 行動と報酬の関係を論じる前に何故それが報酬になり得るのかが、共有されにくいのだと思う。
 行動という語句には嫌悪及び疲労を伴わせる意味合いは無い。順って学習させる行動は対象の一生を通して益になるものが望ましいはずだが、そんなものが判明しているなら悩みの数パーセントは元から存在しない。心は常々焦点を変えながら注目を続けるから。

 とすれば行動と報酬の説得が使えるのは精々幼い時分か特殊な事情を持っている場合で、それ以上やると行動と苦労を混同しだす。苦役を相手に故意に与えてその疲れに教えたはずのない物差しをあてがい、その目盛り分の報酬を頼んでもいない犠牲を支払って用意する関係が果たして健全と言えるのか。

 この辺りの情報をまさか省略して良いほどお手軽なテクニックでもなかろうから、数行の解説で終わるはずもないと思いたい。

 こうした取引の関係は家庭や職場の境界を持たず幕引きはロシアンルーレットに似て、凄涼とするであろうと思われる。差し出す物が無くなると、それ以上の手段を自ら講じる能力や学習が無かった場合、自尊心や自己肯定感が破砕されるという奇妙な結果が齎される。そこで矢張り疑問が湧く。このゲームを始めたのはいつだったかと。

 言うまでもなくこれは価値観の問題であり、応用行動分析では全ての学習を放棄する手法はあまり好まれないようで少なくとも記事での取扱を見ることがなかった。
 損得に重きを置くかどうかは個々人の選択肢を用意するべきポイントであり、何が損で何が得かは無闇に吹き込むものではない。

 火は紙幣を燃やせるし紙幣で買った生の食べ物も焼ける。人間の頭脳は私的偏見を交えた経験上、火を認識する程度が限界でその時々の都合で着火・消火を行う。火は永続させるべきではないし絶滅させるべきではない。

 応用行動分析が価値観への介入をどう考えていたか素人然として調べていないので分からないが、記憶でさえ意のままでないなら意もまた記憶に則ったものではないはず。よって、学習と判断を混同させる前に人間の諸々について有機的定義付けをしないまま実行するのは、一抹の不安が残る。


 纏めると駄々をこねられて物の購入に金を使うか、報酬を用意するのに金を使うか、の二択に行き着くようなら特別な状況以前に、生活の中での普遍的価値観に対する認識・解釈・処理に向き合うべき項目が残っていると考えていいのではないかと思った。
 無論全てを徹底している人はいるのだろうが、即席解決を求める人間でも目を通せる分量で収まっている必須の情報なる稀有なものが存在するかは、神のみぞ知るところかと思われる。

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