地産地消と特産品の齟齬。日記。

 テレビコマーシャルのように口に出すだけの地産地消は推進されて随分になる。そうした言葉と行動の矛盾が物語っているのは現代の特産品は儲けが第一の目標になりがちで、地元の人間は記念日や贈答など日常生活と離れた距離感で消費しているように思う。

 その土地に住む人間が簡単にその土地の特産品を消費出来ないという事はその土地の住む利点は1つ確実に潰されているし、産業もまた地域の性格を無視した成長をする。

 地元の性格を軽んじるのは人口流出等以前の問題で、住みにくい土地に移住可能な人間は根付く事などまずあり得ず、どこでも生きていけるからこそ土地は条件として勘案されない。順って移住者への文化的・技術的継承は望めないどころかそれらは全て換金されるのがオチだろう。

 そうして完成された出涸らしは少々の災害にも全壊を余儀なくされるような脆弱性を負債として抱え、負債は盥回しにされた挙句運の悪い誰かが自身の破滅で支払う事になる。誰が被災した時に嗜好品で生き延びようと決意するだろうか。

 私は何も安価を求めている訳ではなく、そもそもの議論として年金や企業の留保や生活保護や医療介護に関する保険料などの必要最低限な支出にまで文句を言うなら、どうして衣食住の確保まで行きつかないのか不思議でならない。別に従来のやり方に縛り付ける必要も無く、デメリットがないのなら人工肉だろうが3Dプリンターだろうが駆使して応急的な生活必需品を補えばいい。モノ・サービスが満ちれば金は納税分有れば事足りる。

 衣食住が充実出来るなら今まで散々後回しにされていた環境保全にだって手をつけられる。本当の意味で自然が豊かなのであれば過度に開拓したり利点の少ない雇用のための企業誘致リスクを取る必要も減る。自然は存在するだけで価値が有る。

 繰り返すが地元民が、消費し難い特産品に助けられる状況は考え難い。特産品で知名度が上がろうが腹は膨れないし、フレーズの浸透率が高いという事は思考に依存しない事とニアイコールであり、かなりの情報が削ぎ落とされて実情が何一つ伝わらないという不和が約束されている。それ故に元々無かった観光名所を新設せねばならなかったり地域出身の芸能人に事あるごとに付き纏う必要性が出てくる。

 纏めるなら地産地消を推進するにしても実生活を軸に展開した方が後代にも遺せるちゃんとした財産になりやすいと愚考している。

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