神への信仰と個人のストーリーの関係性について。雑記。

ヒトは何かに力が有ると信じる。このように書くと極めて非現実的で未開文明の出来事のように思え、現実味や実感は薄くてそんなに単純な生物ではないと否定したくもなるが、その「何か」が予測だとしたら途端に話は変わってくる。

予測を予定や計画と言い換えてもこれは成立する。予め目標を定めてそれまでの過程における手順を厳守し、予測イメージと合致すれば成功と見做し、乖離すれば失敗と断じる。これは一種の人間集団における共同幻想である。

手段を厳守しようがコストをいくら支払おうが、物理的事情が行う因果の応酬、つまりは運が悪ければ失敗は免れない。科学の再現性に環境設定がいかに重要視されるかは、海中での燃焼を実現可能かを考えれば想像に難くない。

けれどもヒトは計画を妄想と看破せずに、自己都合に有益であれば言及を止めるという選択をした。自己の利益を優先し、計画の精度を放棄した人類は、軈て病的なまでに成功と失敗を敢えて利益と実現可能性を混同しながら説明しようとした。平たく言えば舌で甘いと感じる為に1+1をやっている。

こういう風にヒトは現代に於いてもやや病的な性質を残して生きている。そしてこの病的な性質の1つにストーリーを演じるというものがある。

三児の魂百までと言うように、幼い時分の環境は成人に達しても精神に色濃く影響を残すというセオリーが存在する。しかし、このセオリーは多くの認知の歪みと価値観への同意に支えられているもので、ひとたび何かの影響でそれらが打破されるとそれを奇跡とか災難として扱おうとする。つまりこれらは学習してきた無意識の計画と表現できる。そしてこの無意識の計画は大抵、手を加えられないまま一生を終えるのでこれをストーリーと呼ぶこととしたい。

ヒトはこうしてストーリーを演じる。本人は演じているつもりは当然無く、けれどもどこか病的な幻想を取り入れて生きている。そして題名に記した通り、ヒトは運が引き起こす現象によって少なからずストーリーに編集を迫られる事がある。古くはこの編集に際して運を擬人化し、それを神秘的に捉える事で不利益を免れようと神と呼んだと解釈できなくもない。

何故できなくもないという表現になるかというと、ストーリーの主役である本人はストーリーに絶対的な権能を付与するために利益と不利益を創造し、創造から出発した歴史的観点では自然に神を見出したという話になっているからだ。私はその観点を排除したくはない。

話を戻すと、そうしてヒトは利益と不利益の観点から自分を無知無能と定義し、扱う事で神秘的運がストーリーに介入する余白を準備した。神秘的存在を組み込まれたストーリーは遂に因果関係を逆転させ、祈りという行為を開発しさえさせた。ヒトは森羅万象に対して持て余す程に潤沢な権力を豊かな想像を挟んで下賜した後、自らの行為を森羅万象に変えさせたのだ。

然るに、信仰とはこの運がストーリーを超えられなかった中に見出される。ヒトが作り続けるストーリーは神さえ利用してしまう程に怪力を持っているのに、その怪力で自分が無知無能であろうと努めるのだから外部からの力が、物理的事情ごときが、心を幾許かも左右できない。

仮に神秘的存在が猛威を振るうストーリーを完成させる為には、自分がいかに弱い存在かを強調しなければならない。その熱量は並大抵ではない。神への信仰は、ストーリーという観点を用いると神への想いというよりは強烈な自己否定と言えないだろうか。

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