痛覚と生命観の相関について。日記。

 よく言われるような倫理ではおしなべて「苦痛」という概念が使用される。この苦痛を勉学として理解しようという試みではないものの、人間の認識の妙で起こる偏見はとりもなおさず「差別的」という概念にまで波及して纏わりつかないとも言えないので、雑に記す。


 人間が生命を奪って感謝する光景が一定の前提の有無で合理的か狂気的かと見え方が変わる。

 自然を相手にして狩猟や漁を行う時にはいつも獲物を獲得出来るとは限らない。そこで俗に言う農耕民族はおおよそヒステリックになる傾向があるらしい。「今獲れなければこの後腹を空かせて死んでしまう」「もう太陽があの山の上まで昇ってしまってる」「体力はあと数分も保たないぞ」とこんな具合に。

 他方慣れている俗に言う狩猟採集民族は「今日は獲れなかった」「帰り道に何かあるといいなぁ」「帰って神に獲物を寄越すように祈っておこう」といった様子を見せる場合がある。

 ある意味で現代人の思考はどちらかと言えば農耕民族寄りになっていて極めて理論的だと思う。しかし狩猟採集民族を見て能天気だとか感情的だと決めつける傾向もまた所謂農耕民族的な偏見がそうさせている。

 両者の最大の違いは理論ではなく許容である。農耕民族の許容量は極めて少なく、だからこそ殆どの場合保証や根拠が欲しくて堪らなくなる。これを理論的と見るのは時代の風潮もあるだろうが、ここから現実に起こる現象に向けてアプローチをかける力は生まれにくい。自然はその全てが流動の最中にあって例外は記録を上回る形で降りかかるからだ。

 狩猟採集民族の全てではないものの、彼らの許容は現代人から見れば独特で、無い物は無いし有る時は有る、というような場面適応に重点がおかれる。彼らは獲物について知っていれば良くて、他の生物が有効利用できるかどうかは然程興味が無い。だが、軽度の関係妄想や伝統的慣習で農耕民族と同じく共同体を形成できるし、重大な事は神話や独自の物語に解説も含めて生活の中に保存される。

 この許容の条件は生命観にも紐付くもので、農耕民族の伝統的には再現性を求める場合は生命自体が人間のルールやゲームに則って悲鳴をあげたり脳を萎縮させなければならない。その為に脳波を測定したりして「この生物は痛覚を持たないのだから残酷な行為ではない」と説明する。

 ところがこの食物の殺傷と人間の生存の関係を矛盾と見做す風潮は一向に冷めず、俗流の結論としてはいただきますと言って感謝をすればそこで終わりとしようというお粗末さに変貌を遂げた。

 他方で狩猟を行い命を奪う時に、命の実在ではなく生命の躍動を共感する傾向が人間には元々は備わっていたはずで、無理に目的を作って視野の狭い人生を進むのではなく、気分によってやりたい事が目まぐるしく変わるのだから基本的には解放されて自由で然るべきだという体感が共有され、ある意味でそれが理念だったと考えられる。

 現代人はいかに幼い頃から目標を効率的で安全に達成するかという言論空間で育つが、その成れの果ては未来への恐怖心の増強という副作用を伴っている。予定の為に欲求を抑え、見栄えの為に主張を控えていれば個々人の「やりたい事」は却って抑圧され、説明書付きの自由だけを楽しむようになる。

 痛覚が備わっていなければ殺傷する免罪符になるという感覚は自由に関する体感を伴った理解の欠如に他ならず、それは人間自身が患っている病の写鏡として皮肉なことに非論理的結論を高圧的に唱えるしかない姿を日の下へ晒した。

 何にでも保証があるのだという前提があればこそ非喜劇のバリエーションは単調になり、ホラー映画は共感から損失重視へ変貌する。知的水準や地位に関わらず生活を共にする仲間が恐れている神々しい禁忌にケアレスミスで触れてしまう事で2つの情報が紐づけられた際に起こるホラーと、強くて倒せない相手に接したホラーではまるっきり別物だ。

 日常生活のハードルが高くなるのも、老人が物理的な貧しさがあった過去を良かったと思うのもヒステリックな文化とのギャップに基づくものが少なくない。かつて夢を追うという行為は寧ろ非現実的で共感しにくい光景だったのが、いつの間にか金という証拠を出されれば即座に飛び付くほどに激化している。しかもこの時ばかりは金と夢の相関関係など疑いもしない事さえある

 極端かもしれないが現代人は証拠が有れば何であれ安全だと思い込むようにできている。けれど自然相手にはそうはいかず、古事成語では杞憂が良い例となるだろう。

 痛覚の無い生物は自由な生活を謳歌出来ていないのだろうか。それはヒステリックなヒトのように喜怒哀楽の分類法に則った表現で嘘くさいコマーシャルのように歯を剥き出して笑っていなければならないのだろうか。

 束縛される事で自己表現の殆どが封じられるのなら獲物を狩る行為は喜びの行為が他の喜びを封じるという循環の体現ではなかろうか。それ故に苦しまない事を重視する殺生が生存の困難な末期の個体に対しても行われる文化が醸成されるのも不思議ではないし矛盾でもない。(※だからと言って技術を否定はしないが)

 獲物が狩りを逃れたという事は人間もまた緩慢に狩られている状況にあり、空腹に依る生命の危機は大至急努力で取り戻すものというよりも、循環をもっと活発にするべく神に祈るという帰結は勢い極めて論理的思考だと思う。

 順って現代人の考える痛覚依存の生命観では自由意志への理解なぞ熟成されるとは思えないし、自由を説明しようとしても農耕民族的伝統を自省的に分離出来る人間は稀なように思われる。

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