多数派の憂鬱



 久しぶりにロナルド・ドーアとトクヴィルを読んでる人を見つけて悦に入っていた。平たく言えば感化されたので少しそれらも加味して書いてみる。

 民主主義の特徴の一つに多数決というおままごとが意思決定の名の下に行われるというものがある。生学問の方では簡便で最適なものとされていて、世代を経てからはもうその不適切な遊戯に誰も心中で疑義を呈する事さえなくなったように私には見えている。

 多数者の専制と大仰に言うのではなく、「多数派が無条件に強い」という分析が平然と罷り通る危険性を少し考えたいと思ってこれを書くに至っている。

静かな権力者

 多数決に支配された環境では権力者の存在が形を潜める。何故ならその環境下で使われる言葉はその発言者よりも、語句の甘美さが風潮を形成して、軈て意見は是と非に分かれて行くからだ。しかしその後現れるのは砂上の楼閣である。

 多数決には実行能力が想定されていない。何か決めたは良いものの、その後意見を踏まえて多数決の参加者全員が自己の怠惰な習慣や倒錯した思考を変貌させるかと言えば否。何故なら多くの場合は多数決が「平等の生産」道具になり下がるから。

 多くの人々に影響を与える行動をとる事は時として所属するコミュニティ内からの反感を買いやすい。取り分けその後の利益を大規模で左右する事柄では既にできあがったコミュニティ(集団)内のヒエラルキー(序列)に配慮して、コミュニケーション上の摩擦を少なくする目的で多数決を用いるのだが、ヒエラルキーの存在は多数決で消滅する事は無い。多数決を採る際に会議を催す者の存在は既に会議を開くだけの実行能力(反感を制圧する力)を示していて、参加者は同意よりも服従の体でこれに追随する。不参加の者は多数決の概念上存在しない者として排除されるから。これが権力者である。

権力の分散

 多数決の形骸化を解消するべく議論されるべきは「権力の分散」である。権力者の持つ権力を会議の参加者全員に同程度持たせるか、権力者の権力を分担するかの2択だ。こうする事で初めて多数決に参加する意義を考える環境が整う。

 しかし権力が分散したからにはまず権力の集中が原因で出た損失を全員が取り戻そうとするのは想像に難くない。この必然的波乱を払拭するのは参加者全員の前提知識と目的意識の統一なのだが、一体誰がこれを先導するのだろうか。必要な知識が予め揃っているならそもそも合議など行われる必要は無い。この故に会議は多数決ではなく「模索」の段階へ移らなくてはならない。

 さて、模索するにあたって権力者が見事に淘汰された楽園では凡ゆる分野の知識が飛び交うに違いない。皮肉にも知識の応酬は折角絶滅させたヒエラルキーを再興させる。参加者が愚者と賢者に分けられたのだ。

 愚者は会議での発言力及び信用を失う。幾ら意見を言っても聞き入れられず、愚者は再びコミュニティに阿って会議を去る。こうして漂流した多数派は珍しくない。
 形骸化した多数決は、こうした「漂流者」を多数派と少数派の双方から生み出していつの間にか参加者を削ってしまうのだ。こうした漂流者は概して少数派と見られがちだが、少数派は寧ろ会議に残って議決する側である。

権力の甦り

 斯くして庶民の間であろうとも少数の権力者が王座に着く構造は普段から散見される訳だが、そもそも多数決に依って権力が正常に機能する未来など存在するのだろうか。無論否。

 権力は個々人の思い通りにならない状況を作り出す力を指すのであって、それが正常かどうかを問うのは結果として派閥の新設を招く行為に他ならない。

 昨今のマイノリティとマジョリティの対比は実にこれである。社会に於ける権力からの抑圧と差別を受けてこれに抗う同志を募り、打倒するべく奮闘しているのだが、めでたく打倒した暁には権力の再誕を拝むことになるだろう。


漂流者の非相続

 終に権力は硬直する。生き残った少数派は行為者として多数派の謗りと罵倒を受けながら疲弊した精神を引き摺って、使命を果たす。模索から実行へ移るのだ。
 しかし漂流者はそれまでの熱を失って初めから会議など存在しなかったように振る舞いだす。興味が失せたのだ。自分の人生は一部の権力者の言いなりだと悟り、全てがどうでもよくなる。
 必要に迫られて新しい議題を結局は権力者が提示する羽目になるのだが、もう経験上参加する者は少ない。だが少数派の経験は多数派が得難いものであり、世代交代の後に蜂起した多数派が少数派の代理を務められないのは珍しい話ではない。当てずっぽうの応急処置と残った債務の行く末は破滅である。


 征服の悔恨

 そもそも国家の成り立ちは征服を視野に入れずして語れるものではない。戦争で領土を広げて行ったのは言うまでもないが、その目的は誤算に基づいた即物的欲求である。この征服行為が現代の意思決定プロセスの誕生を促したのは明らかだろう。

 前述の通り既存の権力が新たな権力の苗床となるジレンマから逃れられなくなってしまったのは何も平民だけではない。貴族も王も関白も征夷大将軍もヒエラルキーの中で融通を効かせてどうにか存続を目論みながら消えて行った。残った平民は事実、多数派として少数派の経験を継承する事ができずに揺蕩っている。この惨状は役職を無限に近い数増やしても変わらないだろう。何故ならそれは権力を持った個人達と大差が無いからである。  
 世代交代後の子供達は民主主義の福音に当てられて理不尽な体験を基に自分がマイノリティ(少数派)側だと錯覚している。順次打倒のスローガンが掲げられることだろう。

 ところで生活に多数決が必須なのだろうか。無論是。生活だけに必要なのだ。
 生活する上で衣食住の調達と意思疎通と自衛が出来れば問題は無い。権力の争奪や企業の売上に貢献する意味は財産相続の存在を否定した現代だからこそ消えてしまった。もはや国家単位で纏まる利点が平民には無く、暴力を禁じられた権力者はこれを繋ぎ止める手段を持たない。政治への不参加よりも恐れるべきは原始時代から変わらない。征服行為のような暴力の行使である。

少数派と漂流者

 少数派は特定の分野に特化した者である。漂流者もまたどこかの分野で少数派として君臨し得る。多数派とはこの両者が共に見た白昼夢である。

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