役割分担と効率化



 分業で云々言っていたのはアダムスミスだったかマルクスだった忘れたが、文脈の拘束を受けない分業と受けた分業では発生経緯がそもそも違う。

ジェンダーロール


 昨今の性差を取り扱う議論の中でジェンダーロールという概念が有るらしい。私は勝手に「性別への役割」というニュアンスで理解しているが、役割を振り分けるという行為はそれ自体が複雑な前後関係の認識を要するものである。

 性を捉えるのは男女双方を比較して、身体的な共通点と相違点を把握した後の事だ。勿論印象から要素を抽出して作られた認識が不完全であるのは仕方のない事だが、その不完全な情報をより洗練させて行くのはかなりの時間を要する。ところでこの洗練作業はどこを終着点に置いているのか誰が知っているのだろうか。

 私達は社会全体が同じ目的を持って完全に我欲を捨てて粉骨砕身する状況にはない。順ってそれぞれに都合が有り、都合に必要な情報を印象から抜き出して使用する。その印象が科学的に正しいかという議論の多くは、その印象から抜き出した情報で不都合が発生するか否かに原点を置いているので、別の土台に立脚した議論となってしまう。

 だから性に対する印象に焦点を当てたこのジェンダーロールという概念は、印象に始まり、実益を経て、印象に落ち着く。

役割分担


 このように印象と行動の二者間に不都合が生じる事で、社会が変化して行くのだが、時として順番を逆にして無理矢理役割を与える事で社会が富んで行くと考える人間もいる。

 「誰かが嫌な役を引き受けないといけない」という構想は前述の始点と終点の把握を無視して効率化を語っている事例が多いと感じる。「嫌な役」なる存在は社会のどこに位置しているのだろうか。規模を縮小して考えてみる。

 生活に不可欠な食物の調達を任されたコミュニティ(集団)の誰か1人がサボタージュしたとしよう。恐らく怒りから現代なら排他へ舵を切るのだろうが、するべきは食糧係という役割からサボタージュする人間を解放する事だ。実際分業が効率的だという発想は人間1人が担っていた役割からの解放を発生源としている。にも関わらず役割の全うに焦点を当ててしまうのは始点の認識が不明瞭なまま効率化という妄想を軸に、分業という手法を使ってしまったからだ。

 コミュニティに所属しながら個々を役割から解放するというのは奇妙な話にも思えるが、技術の開発が効率化へ結び付くのは1人が担える役割が増えるから。言い換えれば他者を本来の役割から幾分か解放したからだ。コミュニティの発展は役割分担の観点から言えば役割を奪い合うことでなされる。

 嫌な役を演じる必要は無い。

 因みにここで私のように矛盾を感じたなら多分ガチガチのお勉強脳なんだと思う。おそろっち。
 学問に有って現実に無いのが矛盾だから。

賦役


 では歴史的に見て徴兵してみたり奴隷を用いてみたりしたのは何故か。既述の通り効率化と分業の理路を地道に辿らなかった弊害と為政者の頭の質だと私的には思えなくもない。今回はそれを主題に据えていたから余計に。
終わり。

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