マズローの欲求階層説について。雑記。

これは私以外の人も随分気付いておられる方が多い印象だったが、自分でも認めておこうと思う。

ヒトの欲求を表現するにあたってマズローの欲求階層の図が使われる場面は珍しくない。しかし図のみを眺めていると本物のヒトからかけ離れる機会がやがて訪れるようになってくる。原因は少々複雑で、最上層の欲求と最下層の欲求はヒトの胸の中でほぼ同時に発生している事実を見落としている事にあるようだ。

例えば幼児とか赤児の時期に欲求階層の最上層である自己実現は成されているのだろうか。赤児や幼児の時期は排泄から食事までを親に頼り切っている上に、欲求階層の中間に有る安全欲求や社会的欲求を明瞭には認められない。けれども欲求の運動に支障をきたす事は少ない。

仮に幼児の自己実現を「したいことをしている状態」と定義すると幼児期の自己実現は常に果たされるし、欲求階層の最下層から最上層まで矛盾は発生しない。安全を親の表情や慣れた服や慣れた枕に愛着を持つ事で形成し、社会的欲求を擬人化を通して獲得しているとすれば尚更に。

では幼児から青年に成長する過程で自己実現の内容は変化するのだろうか。恐らく答えはNOであろう。

マズローの階層図に従えば、欲求は満たされる事で下層から上層へ昇って行く。けれどもこの昇るという現象は何を原資に発動するのかを疑ってみると答えが途端に見えなくなる。何故なら上昇など、何なら下降すらそもそもしていないからだ。

自己実現が成されなかったヒトが落胆の末にストレス発散を目的として、承認欲求や社会的繋がりや衣食住をやたらと欲するのは一般的に見られる。しかし、自己実現をし続けたからといって不眠不休の活動は非現実的だ。だから欲求階層における上昇と下降という分析は相応しくない。

なので、ヒトは常に根源には自己実現(したいことをしている状態)を求めていて、適切なタイミングを待つ間は他の欲求に従うと考えれば整合性が取れてくる。約まり、マズローの欲求階層で言う四層目までは全て最上層の自己実現欲求の代替行為に他ならない。

依って、計画的に食う為の労働はただの生命維持であり、生命維持が自己実現の一環ではなくなった時、ヒトは苦悶する。

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