幾つか分ける話


 ツイッターでとある精神科医が占いと受診料を比べてくつくつ書いてあったのを見て少しだけ考えた事を乱雑に残す。

 精神科にお世話になっていて思うのは下手に受診時間を削って薬を出すという一見内科辺りに回した方がマシに思えるような対応をされると、心情が無視された心地になると言うことだ。恐らく主張としては「様々な制約の中で対応しているから仕方ない」となるのだろうが、それならそれでその食い違いの説明にチラシでも貰った方が理解は捗る。

 更に私的な感想としては脳の構造的な問題として発達障害などを捉えるなら矢張り脳神経内科とかの担当になるんじゃないかと主観で思う。それでもあえて精神科医の存在意義を見出すなら、患者が身体的症状に加えて健常者と似通った悩みを抱いた時に、身体的特徴に合わせたペースと視座で理解を促す事で速やかに身体へのアプローチに取り組める点かと愚考する。

 内情を詳しく知らないからこんな風に軽口を書いているが実際はもっと複雑なのかもしれない。けれどそれが解決されないまま受け皿になって欲しくないのも確か。

 また、患者側としては精神科にかかって身体的説明を重点的に受けると混乱するのだが、その混乱の収まらないまま仕事の話などされたら潜在的には患者の負担がそこで増えるんじゃなかろうか。もっと言及すれば結果的にであろうとも、精神科では医者が都合の良い部分だけ人生に介入しているように思えてならない。

 患者に自由意志を持たせる事が至難の業なのは理解出来るが例えば私程度の軽度の人間に、仕事について方向性を定めようと提案する場合、医者は果たして社会における患者のポジションをどう捉えるんだろうか。既述の通り精神医療は行動を円滑に進める上では欠かせないので寧ろ枠を超える形で全面に影響すると仮定したら、仕事の進め方についても知っておくべきじゃないのだろうか。

 個人的に患者側の意見をネット上だけではあるものの、見ていると医療費が給料以上になっている事例を見る。通常、社会では給料はその人の能力に比例するという見方があるので、もしも患者がその視点から自己肯定感を下げざるを得なかった時、医者はどういう対応をするのか。患者へ理解を求めるのか社会構造の正当性を疑うのか。恐らく個々の病院で違うのだろうが、個人的には理解を求めるなぞやめてくれと思う。

 例えば一生のうちたった一枚だけ絵を書いた精神障害者がいたとして、その結果から無関係の人間が逆算して故意にそうしたか不本意でそうなったのかと言って値踏みを始めたらその後幾らの値段が付くかという問題を精神科医はどう捉えるのか凄く気になる。絵の為に一生を費やしたなら恐らく健常者であっても敵う者は少ないと感じるだろうが、それしか出来ない奴だったと言われたら1円の価値どころか葬式と同時に燃やされるかもしれない。ゴッホやモネの絵画が現代では値段を変えて取引きされていても故人には一銭も捧げられない。一般の患者と比べられない才覚だと一蹴されるのならもう社会に戻そうとしない方が数倍マシとさえ考えてしまう。この状況で何故経済の問題が無関係として扱われて理解なぞさせられるのか。

 或いは芥川龍之介の作品である蜘蛛の糸でカンダタが蜘蛛1匹を見逃したのを善行と判断していたが、蜘蛛は恐らく無数にいるのに認識した個体だけを取り沙汰してそれが善行であって良いものか。大仰に言えば確かに生物多様性の増強なのだろうが、だったら発達障害者だってできる可能性はないだろうか。無論健常者も。最近は生態系サービスなる概念の普及もあるらしく、そこに寄与した者が称賛の対象であるなら医者から提案される仕事の範疇はそこへまでも及べないだろうか。この状況で社会構造を無視して民間の用意した雇用の受け皿のほんの隅っこに押し込めて、人間の無限の可能性を語るのは何かの拷問かとさえ思える時がある。

 纏めると精神科を受診して患者になった人間が非生産的と言われる事が多いが、それは生産物が安く扱われているからではないかとの視点を自分も含めて再度問いかけておきたかった。それだけかも。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?