見出し画像

窪美澄さんの「朔が満ちる」を読みました。

虐待やDVから始まった当事者たちの人生と心模様を描いたものでしたが、もう一つの過酷な人生をたどった登場人物の人生と心模様がリンクして、共感の中に生きることの厳しさと希望が混在する細やかな心理描写にうならずにはいられませんでした。

理不尽な暴力に対抗することが罪だというのならば、救いはどこにあるのか?
その対抗措置はどこからどこまでが許されるのか?
そして、対抗措置を罪と意識するならば、その罰を受けるべきか?

いくつもの葛藤と戦いながら、普通に生きることが許されないと感じながら、社会に身をおく難しさ・・・。
ところが、そういう暴力がなくても世の中には様々な暴力が存在します。

「自分だけではない」ということを知ることすらできない限られた世界に生きるしかない人を救うのは、やはり人であるしかないのです。
なぜなら、誰しもその人なりの苦しみや悲しみを必ず持って生きているのだから・・・。
他人に見せようが隠そうが、その行動をもって自分の考えを推し進めていくしか道がないのだとしても、社会にいる限りその行動は誰かに影響を与えていくのだから。

知らず知らずのうちに他者に助けられ、他者を助けていることが往々にして起こり得るのは、この世界が悲しみに満ちていて、そして苦しみに満ちていて、それゆえに人の心の温かさを知る機会がきっとあるという構造が、ほんのわずかな希望であり、救いであるはずなのです。

それすらも感じることができないまま、自分を痛めつけたり、この世を去っていく人が少なくないのは、多くの悪意(悪意と認識されてない悪意)が存在して、傷つけた人を顧みないで、その場を去っていく・・・もしくは自分のために人を傷つけても平気な人が多く存在するのも、まぎれもない事実・・・。

夢や希望にあふれた新たな出会いではなく、傷を慰め合う出会いも何に恥じることなく存在しても良いのだと、自分のうちに見出せたなら、少しは生きていくことに希望が持てるのではないでしょうか・・・。

暴力からはなんとか逃げよう。
力づよく生きる必要などない。
自分なりに頑張ろう。
努力と忍耐は自分と自分を大切にしてくれるひとのためだけにすればよいのである。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?