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『もしも僕が動物園の動物だったら、もっとファンサできるのに』

20240310


 もしも僕が動物園の檻の中にいる動物だったら、もっとファンサできるのに、と思う。

 
子どもの頃、動物園に行くたびにぼんやり抱いていたこの感覚を大人になった今でも覚えている。僕の幼少期に「ファンサ」という言葉はなかっただろうけれど、子どもながらに、自分ならもっと見に来ている人間を楽しませることができるという感覚があったことは確かだ。


 
 僕たちは動物園に動物を見に来ているのに、なぜ動物たちがあまり見えないのだろう。なぜこっちを向いてくれず背中ばかり見せてくるのだろう。こっちを向いているのに、一切体を動かさず、僕を全く興奮させてくれないのはなぜだろう。

そんな思いを、どの動物を見に行っても最初に抱いていた。だから、自分がもし動物側だったら、もっと見物客を楽しませることができるという思いが芽生えていったのだと思う。


 
 サルを除いて。
 
 サルはあまりにも見やすい。なぜサルは山に大群で存在しているのだろう。サルは見やすすぎる。勝手に視界に入ってきている。見に行こうとしなくても、向こうから見られに来ている感じがする。勝手に喧嘩したり、鳴いたり、走ったり、毛繕いなど多様な動きを短時間で見せてくれる。

 
 それに比べてトラは何をしているのだろう。

もしも僕が君だったら、茂みで寝転んでいると見せかけて急に人間に近づいて驚かせたり、かと思えば、人間が見やすいところで長めのあくびをしてから、ごろんと寝転んだりすることもできる。

人間は喜ぶに違いない。スマホで写真や動画をたくさん撮るだろう。
 
 ただ、やりすぎには注意だ。あまりにも人間が喜ぶことをやりすぎると、逆に人間は冷めてしまう可能性がある。必ずしも相手の思い通りに動くことが、その人を喜ばせることにつながるわけではないことも僕は理解している。人間が動物に求める動きを、動物側はしなさそうにしつつも最終的にはするという、このちょうどいい塩梅がとても重要だ。


 
 その点、サルは瞬時に全員で全部やってくれている気がする。人間の心情を理解している自分がサル山にサルとして入れられたら、それはとてももったいない。サルはもうすでに、人間が望む行動のほとんどを実践できてしまっている気がするから。


 
 そんなことを考えていたら、急な不安に襲われる。
 
 もし、僕がサルとしてサル山に放り込まれたら、人間へのファンサとかそういうこと以前に、そこで皆と仲良く生活できるのだろうか。ボスザルに近づこうとしなくていいから、気の合う仲間を見つけて、その数人と山の端の方で静かに毛繕いをして時間が過ぎていくような平穏な日々を送れればいいのだが。

 
 サル山を見に来た人間に、ねえ見て、あのサル友達いなさそうじゃない?とか、あいつだけずっと一人だなとか、あのサルはこのサル山で完全に浮いている、などと指摘されようものなら、いったん自分の気持ちを奮い立たせる必要がある。

人間だったときの自分の気持ちを思い出して、普段は皆と戯れて遊んでいるけど、今はちょっと一人の時間が欲しいのさ、という感情を目と顔と鳴き声で表出させて、外部の人間に理解させる必要があるだろう。少し迷惑そうな表情で、集団で戯れているサルたちを横目に見ながら。


 
 こんなことを考えていると、きっとサル山のサルたちもそれぞれに悩みとか不安があるのだろうと思う。人間に向けてのファンサとか、そんな暢気なことを考えている余裕は、動物園という人間向けのエンターテインメント施設に存在する動物とはいえ、考える余裕などないのかもしれないと思った。

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