アゴン(競争)についての考察

 アゴンとはロジェカイヨワが遊びを四つに分類した上での競争の遊びの呼び名である。カイヨワ曰く、人間の活動は全て遊びのモデルで説明されうるという。
 競争はあるゲームにおいて行われる。ゲームであるからにはルールがあり、そしてルールとはそのゲーム世界をゲーム世界たらしめる世界観そのものである。
 そして、競争はそのゲームへ人を没入させる効果を持つ。「競う」というものは、人を「ルール」様の従順な奴隷に変え、ゲームの内側にどんどんと引き摺り込む装置なのである。
 私が競争を恐れるのは、何も敵が恐ろしいのではない。むしろ、没入し、その敵を憎むように変貌してしまう自分が恐ろしいのである。
 私が常々、競争というものに対し否定的なのは、私が競争に興味がないからではなく、もっともその影響を受けるからなのだ。
 人が何かを嫌悪する場合、その嫌悪の対象はもっともその人に影響を与えるものだ。ゆえに遠ざけたく、ゆえに引力から逃れるためのジェット噴射は強力となる。「○○が嫌いだ」という語気が強ければ強いほど、○○の引力はその人にとって恐ろしいということなのである。
 競争は、私をそのゲームに没入させる。そのゲーム内のルールブックには勝敗、損得が至上の価値であると書かれている。つまり、得るものと失うものに世界を二分するのである。その上で、私は恐るべき嫉妬の野獣となり、世界への憎悪はそこから生まれるのである。
 考えてみれば、「嫉妬」という感情は競争という場以外では考えられない感情なのだ。嫉妬とは妬むことである。そこには差異があるはずである。優劣。どちらかが優れ、どちらかが劣っているということ。この観念のためには舞台として競争という概念が必ず必要となる。競争(比べる)がなければ優劣がつかず、優劣がつかなければ嫉妬は生まれないのだ。
 つまり、嫉妬が起こる場合、私は競争のゲームの渦中にいるはずなのである。
 競争の観念は至る所に含まれている。例えば、科学的思考。科学的思考は平準化した状態(求めたい結果以外をフラットにする)のうえで比較し事実らしいものを確かめていく作業である。これも発想は競争と同じなのだ。例として、スポーツではお互いの装備や状態を平準化することによってどちらかが能力が上であったかを決めているのである。もし仮に、Aチームだけ20人でBチームだけ5人というサッカーをした場合、Aチームが勝ったとして、それはAチームの能力を証明することにはならないであろう。科学実験は同じ構造でもって真理を求める活動なのだ。
 そもそも科学的真理がなぜ求められ必要なのかも、競争において納得のいく(常に変わらない)ルールが必要であり、まさに神が定めたルールを知りたいという希求が原因なのだ。
 私は「怒り、悲しみ=自分の大切なものが毀損された場合に起こる」という公理を参考に、私の大切なものとは一体何なのであるか、を検討してきた。そして、ひとつ確からしいものとして「競争のゲームに巻き込まれること」もしくは、「そのゲームにおいての自分を見つめること」を拒絶しているのではないかと思い当たるのである。
 私が嫌悪するのは損得や利益、権利について、私と交渉してくる人間であり、私に法を説くような人間である。(法、法廷も競争の原理により稼働するシステムである)
 では、私の現在とっている戦略はどういったものであるか。それは競争のゲームを演技のゲームに改変してしまうというものである。ある種の方には誤解を与えてしまうかもしれないが、平たくいうのであれば、「プロレス化」するということだ。プロレスというのは特殊なもので勝敗というものがあるが、それ以上に演技的、パフォーマンス的であることが求められるようである。
 ようするに競争のゲームの中で演技のゲームを導入することで、勝敗以外の軸を作り出すのである。

このように言えるかもしれない
アゴン(競争)のゲーム=結果(勝敗損得)が重要
ミミクリ(演技)のゲーム=過程(美しさ)が重要

演技においては勝敗は存在し得ないし、損得もあり得ない。ゲシュタルト、全体性としての「成立している」「整合性」こそが最も重要であり、そこに寄与することがこのゲームへの没入をもたらすのである。
 先にも述べたがゲームにはルールが必要である。ルールがないゲームはゲームとして存在し得ないからだ。私が近年、行っているさまざまな活動はすべて、このルールの拡張なのではないか。整合性こそ演技のゲームの限界であれば、整合性の解体、拡張こそが私の世界を広がるのではないか。
 そしてこれが、整合性へのアンチテーゼたる詩への興味なのである。そして、詩は間違いなく、競争のゲームのフレームワークに相対するのだ。詩には勝敗はなく、かつ整合性も高次の次元でおこなわれる。
 私は全てを詩に変えようとしている。
そのために嫉妬や怒りは競争のゲームを競争のゲームのまま受け取っていることのリトマス試験紙となりうる。嫉妬や怒りを隠蔽するべきでなく、かつこの競争(アゴン)といかに対峙していくか、向き合うべきであるか。これが今、私に明確に与えられた課題なのである。
 
 
 
 
 

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