優しすぎるんじゃないですか?(詩)

「触れ方の練習をさせてください!」
「よいですよ。握手してみましょう」
 手を伸ばし、カウンター越しに握手をする。店内には私たちしかいない。変な緊張に無視を決めこみ、手を伸ばす。先ほどインターネットで見た虫様筋(他の先端ではなく、中心。手のひらのあたりの筋肉)を意識して握る。
「ふむ」
「今度は普通に触りますね。」
「あー、指先に力があるんですね」
「どうですか」
「いや、別に私はなんとも思いませんが、あえて言うなら手少し震えてます?」
 店主は笑い、私は少しギクリとする。
 日本語は面白い。「ふれる」「さわる」共に同じ動作を表す言葉である。だが、確かにこのふたつの表現には明確な違いがある。「ふれる」には何かケアのような、労わるような、そういった雰囲気があり、「さわる」には傷に塩を塗り込むような、相手をモノとして見ているような冷たい感触がある。私は人と接触する時に、無意識に「さわる」と言っている。相手が私に接触してきたときには「ふれてくれた」と言うのに。
 私は私の接触が、何か相手に対する侵犯のような、何かとても相手を害するものだと思っているのである。
 そして、それは恐れとなり、しっかりと身体の反応として喫茶店の店主に感じ取られたのであった。
 私は本当はふれたいのだ。さわるのではなく、誰かの体温にその傷に本当はふれたいのである。しかし、それが私に出来ないのではないか。その恐れが現在の私を形作っているのである。私はその人を形作るものが何であるかに興味がある。恐怖で作られたものは恐怖を再生産し、ワクワクで作られたモノはきっとワクワクを再生産するのではないか、と思うのである。
 私はこの恐怖によって作られた私を解体したい。恐怖によって形作られた私は他者を恐怖させるであろうし、また私自身を新たな恐怖で包むからである。
 「私も昔、人への接触練習した事あるんですよ。コツはね、相手をモノだと思うくらい、強く行く事です」
「〇〇さんもですか」
「大学生の頃ですけどね」
「僕らは本当、人間になるためにデータ集めてるロボットみたいですね」
「人を傷つけてはいけない」
「アシモフのロボット三原則ですね。全く確かにそうだ、何故僕らはアシモフの作ったロボット用の原則に従ってるんでしょうね」
「ロボットだからですよ」
「帰りたくないなぁ」
「飲みに行きますか!妻を呼びます!!」
 先日、別の友人に「確かにあなたのボディタッチは気持ち悪い」と言われたんだというのが、話の発端であった。何か機会を伺っているような感じが怖いのだと言う。私にはまったく冗談だとは思えないのだ。確かにその通りだ。私は気持ちの悪い、不気味なロボットなのである。人になろうというのはよっぽど人間らしいことだと私は思っていた。しかし、よく考えずとも、人になろうと人は思わないのである。私が悲しいのはきっと悲しみによって私を形作っているからである。再生産されるのは悲しみなのだ。高架の横を男2人で歩く。寒空に大きな構造物がズングリと体をもたげている。
「前のあの人女性だと思います?」
「女性じゃないですか?あんなに小綺麗な格好を男性はしない気がします」
その数時間後、友人であり、馴染みの喫茶店の店主である男は言うのである。
「あなたは女性に優し過ぎるんじゃないですか?」
過ぎること。過ぎたることはもっとも奇妙に、不気味に映るのである。


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