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やりたいこと 好きなことがわからないあなたへ(第1話〜第9話)

(第1話)

「モンキー!! 今どこにいるか分かるか!」

「・・・・池・・・袋・・・・」

「ラサだよラサ!! 下手したら死ぬぞ!!」

「(死ぬ?)・・・・」

 大学卒業を数カ月後に控えた頃、小学校時代からの親友と卒業旅行へ行くことになった。どうせ行くなら、なかなか行けない場所へという話になり、スリランカと中国のチベットで迷った末、チベットへ行くことになった。
 これが初めての海外旅行だった。2週間の旅費は、半年間働いたアニメ制作会社のアルバイト代でまかなえた。

 親友の提案で、大阪から上海まで48時間かけて船で行くことになった。2万円以下の1番安い乗船券しか買えない学生たちは、3等席の大部屋で雑魚寝することになる。
 そこで気がついたのは、関東の学生は2人組が多く、関西の学生はたとえ初めての海外旅行であっても、1人旅が多かったということ。私は関西の学生に強い独立心を感じた。

 その中でも、奈良高校出身の京大生M君は興味深い人だった。彼が言うには、京大生には変わった人が多いらしい。彼はインドを旅行中に怪しい店に入り、用心棒のような男たちから金銭を巻き上げられそうになった。
 殺されるかもしれないと感じた彼は、その旅の初めにマザー・テレサに会いに行ったことを思い出し、「俺はマザー・テレサに頭をなでてもらったんだぞ!」と大声で連呼し、その気迫で難を逃れたのだと言う。

 そんなことから自然とお互いの将来の話になって、彼は映像には世の中を変える力があること、そして、カメラを持って世界中へ行ってみたいという夢を語ってくれた。東大生の口からは絶対に出てこないタイプの夢だった。
 彼のお薦めの映画『バグダッド・カフェ』は、その後の映画制作に大きな影響を与えたといわれている80年代の西ドイツ映画で、私も大好きな映画だ。

 私には明確な夢はなかったが、当時アニメーションに大きな可能性を感じ始めていた。
 そこから例え話として、「世界共通の言語を今から作るのは無理だけど、世界共通の手話なら作れるかもしれない。障がい者まで含めた、これからの世界平和にとって必要だと思う。それを日本が得意なアニメーションという形で、世界に広めていけたら面白そうだな」と話した。

 一体、それをどうやって実現するのかという観点が抜けている話にもかかわらず、彼は真剣に話を聞いてくれ、最後に私の親友に向かって、「彼すごいね・・・」と言ってくれた。 

その後、彼は私の親友と揺れる船の中で缶ビールを7缶ずつ空け合い、まともに歩けない状態で上海に到着した。
 京大生のM君は、よろめく足どりで降船し、上海の港で別れたが、今頃はどうしているだろうか?


(第2話)

 目的地に着いたら、まずは宿を確保し、すぐに次の旅行先、西安への寝台列車の乗車券を購入するために、上海駅へと向かった。駅には外国人専用の窓口があり、思ったよりもスムーズに乗車券は取れた。

 その帰り道で、乗船仲間の1人と再会したのだが、今にも泣き出しそうな顔をしている。話を聞くと、上海ガニを少し食べただけで、2万円も取られてしまったという。船を降りてから、まだ2時間も経っていないのに・・・。そんなに上海ガニが食べたかったのだろうか?

 中国の寝台列車は、私にとっては快適だった。ただ下段の寝台席を取ると、そこが自然と共有スペースとなり、勝手に食事を始めてしまう人がいるので、眠くてもそれに付き合わなければならない。それ以後は、上段の寝台席を取ることにした。
 夜の11時頃に西安駅に到着したが、駅も街も暗く、中国に来て初めて怖さを感じた。とにかくすぐに宿を取って寝ることにしたのだが、呼んでもいないのに何度も部屋のベルが鳴り、外には女性がいるようだった。翌日、西安から成都へと向かった。

 成都は、よく整理された大都市で、私をほっとさせてくれた。外国人がラサに行くには、指定された旅行会社のツアーに申し込む必要があった。出発まで数日間あったため、宿で知り合った日本人と、パンダで有名な動物園や麻婆豆腐発祥の店へと行った。
 お目当てのパンダは全身ドロだらけで汚く、客に見せるという観点が全くなかったし、麻婆豆腐も辛さを通り過ぎて痛いくらいで、ほとんど食べれなかったが、それなりに楽しく過ごせた。

 ラサに向かう飛行機から外を見ると、日本とは全く違う乾燥した険しい山肌が見えた。到着後、空港から市街地へと向かうバスから見えた湖は、信じられないくらい澄み切っていて美しかった。

 市街地に着くと、旅人たちに人気のヤクホテルに宿を取ったが、早くも高地特有の高山病で、頭がじわじわと締め付けられてきた。標高はちょうど富士山と同じくらいで、体が慣れてくるまで、だいたい3日はかかるという。

 ラサでの1番の目的は、ダライ・ラマが幼少期を過ごしたポタラ宮へ行くことだ。私たちは体調が整うであろう4日目に、ポタラ宮を訪れることにした。高山病は想像以上に苦しく、初日は全く眠れなかった。
 高地では体内が水分不足になりやすく、こまめに水分を補う必要があるのだが、そこがしっかりとできていなかった。私の頭は痛さを増し、2日目の夜も全く寝ることができなかった。

 4日目にポタラ宮へ行くためにも、3日目の夜はどうしても眠りたかったし、少しでも体調を戻したかった。私は現地の診療所で、高山病に効く薬をもらい、日本から持っていった頭痛薬を併用し、万全を期して眠りについた。これで完全に眠れる・・・。
 翌朝、私は完全に意識を失っていて、呼んでも叩いても全く反応しなくなっていた。親友と宿の住人が、近くの診療所へ運んでくれ、点滴を打ったのだが、うまく針が血管に刺さっていなかったようだ。

 15時間後にかろうじて意識が戻った時には、逆流してきた点滴液で右手は倍にまで膨れ上がり、手の甲いっぱいにドーム型の水ぶくれができてはつぶれる・・・という状態を繰り返していた。
 重度の高山病は、下山する以外に治療法がなく、死に至ることもある。親友がすぐに翌朝の成都行きの航空券を取り、その後ラサで1番大きい病院で点滴をやり直した。

 次の日、何とか飛行機に乗り込み、成都に戻ることができた。最悪の事態は脱したのだが、右手の甲全体が5ミリくらい陥没し、まるでクレーターのようになっていた。
 そして、理由は分からないが、尻が筋肉痛となってしまい、寝ても座っても歩いても激痛が走る。食事に行って宿に戻るだけで、とんでもなく時間がかかった。

 成都の空港で、バスに見間違うほど小さな上海行きの飛行機に、意を決して乗り込み、どこにも立ち寄ることなく、そのまま日本へと帰国した。

 無事に日本に戻れたものの、1番の目的だったポタラ宮にも行けず、親友には本当に申し訳なく思った。彼は卒業後に保険業界に入り、30代半ばにして支社長となり、年収2000万円を稼ぐ男になっていった。
 私は20代のうちに、必ずもう一度ラサへと行き、ポタラ宮を訪れることを心に誓った。

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