週刊「我がヂレンマ」<2月12日号>

 よく晴れた振替休日、いかがお過ごしですか。私は『どん兵衛の日』を楽しみました。天ぷらそばと、きつねうどんの特盛を購入。
 そばにコロッケ、うどんに九条ネギをトッピング。汁は勿論、完飲。デザートはスニッカーズという贅沢ぶり。しめて約1000円。お腹いっぱい。場所代が多く含まれた大都会の意識高い系ランチに2000円を出すよりも、遥かに満足度は高い。人間、結局は『どん兵衛』にいきつくのだ。どん兵衛は不滅である。今流行りのお洒落莫迦エクスペンシブ・カフェなど、数年もしないうちに閉店である。
 そんなどん兵衛のような文章を書きたい今日この頃。今回は、
<メモについて解説と考察><おススメの書籍紹介><ソーセージを炒めて白飯を喰らう37歳>で行きます。レッツゴー。

<メモについて解説と考察>

「尿近」
 出典不明。おそらく頻尿の言い換えだろう。ビールを呑むと尿近になる。アルコール・カリウム・水分の相乗効果による、利尿作用がある。
「アルコールが抗利尿ホルモンの分泌を抑えること」
「カリウムが新陳代謝を活発にすること」
「水分が大量に含まれていること」の3つ。
 アルコールの飲み過ぎは、細胞内の水分を減らし、脱水症状をきたす危険性があるので注意である。それはそうと、年齢による「尿近」にはなりたくないものだ。

「マリモ」
 毬藻は、球状集合体を作ることで、その名前が付けられ多くの人に知られている、淡水性の緑藻の一種である。生物としてマリモの一個体は小さな糸状の繊維(糸状体)で、球状になる集合型のほかに、綿状の浮遊型、湖底の石・岩や湖岸のロープ、杭など人工物につく着生型としても生息する。日本の阿寒湖(北海道)に生育するマリモは、美しい球状体を作るため特別天然記念物に指定されている。
 そういえば小学生時代、小さなマリモを所持していた記憶がある。当然、行方不明である。小学生時代の所持品は時空の彼方に消えがち。

「ゾンビになった父親」
 設定メモだろうか。子供の視点でも、まだ意識がある父親視点でも、切ない設定である。ただその「切なさ」を強調し過ぎると、読者を感動させようとする作者の作意を感じさせて、くどくなる。切なさはほんのり香るぐらいが調度いい。シビアな現実を淡々とレポートのような文体で紡いでいって、セリフ一つに感情を込める。そんな感じだろうか。

「機械が社会にもたらす危機というのは、機械そのものではなく、人間が機械をどう使うかによってもたらされる」
 出典不明。AIが人間の知能を超える「シンギュラリティ」後は、「機械が人間をどう使うか」に逆転するかもしれない。その時私は糞爺として死にかけていそう。何にせよ、機械を人間がコントロールする限り、間違い続ける。そして、学んでブラッシュアップも続ける。連綿とつづく人間の歴史が明るいものになってほしい、ですネ。

「拡大再生産(英:extended reproduction)」
 とは、マルクス経済学において、剰余価値(生活に必要な労働を越えた剰余労働〈不払労働〉が対象化された価値)の一部、またはそのすべてを資本家の消費に支出することなく、資本に転化して蓄積することによって生産規模を拡張し、再生産を行うこと。
 だそうです。なんだか格好イイのでメモした模様。頭良さげな言葉を蓄積することによって、何が産まれるというのか。使途不明である。

「つまんねぇな、死ぬの」
 出典不明。死はつまらない。生は面白い。なんだかサッパリとした感覚である。どこか潔さも感じる。普段は飄々としているが、やる時はやる。そんな人物像が浮かぶ。他方、生きることを「楽しむ」のは素晴らしいことだ。  
 楽しむために、努力をつづけて結果を出さなくてはいけない。上手くいかなければ、「つまらない」のだ。

「バッキバキ・バッキンガム」
 綿矢りさ先生の『パッキパキ北京』の連想である。バッキンガムとは、イギリスのロンドンにある宮殿のことで、外周護衛を担当する近衛兵の交代儀式を見物できることで有名である。これはイギリス・ロンドンに長期滞在したら、フィールドワーク小説として書いてもいいか。
 パスポートすら持っていない私には、今のところ縁がない。そろそろ国外脱出したい。何もかも辞めて止めて自由を爆発させたい(妄想)。それこそバッキバキである。

<おススメの書籍紹介>

『ブラッドハーレーの馬車』 沙村広明
「かつてこれほど残酷な、少女の運命があっただろうか」
戦慄!衝撃!圧倒!沙村広明の最新傑作シリーズ!
「真実を知りなさい、コーデリア」
「朝になったら私・・・気がおかしくなってしまう」
「もっと綺麗な魂を・・・持っていたら」
 資産家・ブラッドハーレー家の養女になることが、孤児院の少女たちの憧れだった。ブラッドハーレー聖公女歌劇団で華々しく活躍する・・・そんな期待に胸を膨らませた少女たちがたどり着いた先は、暗い暗い塀の中。恐ろしく壮絶な悪夢が始まる――。
 ある西欧の国の、ある刑務所の長期・服役者の性欲求・破壊欲求の抜本塞
源(弊害などの生じる根本の原因をなくすこと)として、13歳以上の孤児の少女を慰めものとして、使う。なんとも吐き気を催す、絶望的な世界観である。救いもほとんどなく――最後は。読んでみてください。
 もし映像化されるなら、
エンディングは『CLANN』の「I Hold You」がいい(YouTubeで検索のこと)。

『うめざわしゅん作品集成 パンティストッキングのような空の下』
                       うめざわしゅん
「心を抉る漫画、表現の到達点――」
「みんなも、うめざわ作品を読んで滅多刺しにされればいいんだ!」
                    諌山創/『進撃の巨人』
「僕は漫画や音楽や、その他いろいろから勇気をもらって生きてきた。絶望と希望、どちらもあって、どちらかでなく丸ごと抱えて生きてゆくような。うめざわさんの漫画もそういう人生のよき一冊になる気がします」
                    カンパニー松尾/AV監督
「漫画を超えた漫画。余韻残りっぱなし」
                    末井昭/編集者・エッセイスト
「うめざわしゅんのマンガの読んでいる間中、ずっと胸の中がざわざわしていた。それはいったい何なのか、と思って、しばらく考えていたが、どうやら『感動』というものらしいと気づいた。なんてこったい。こんなものに、こんなものに感動するなんて。それから、もう一つ別のことが頭に浮かんだ。ほんとうにすごいものは必ず誰かが見つけ出してくれるんじゃないか、ってことだ。誰だか知らないけど、うめざわしゅんを見つけてくれて、読ませてくれてありがとう。この世の中、まんざら捨てたもんじゃないよな」
                    高橋源一郎/作家
「もがくほど変わろうとしない世界。人間本来の力強さを感じるオープニングから、自分自身を再定義して新世界へと踏み出そうとする圧巻のフィナーレまで、心に刺さりまくる素晴らしい作品でした。はみ出し者たちのジュブナイルはたくさんあるけれど、漫画表現の枠組みを忘れてしまうほど鮮烈でした」
              橋野桂/『ペルソナシリーズディレクター』
「もう大体、上記の人びとが語ってしまったので、何を書いても蛇足になりそうですが、一言。私は脱穀されない穀粒のひとりです」
             ろくでなしのK/底辺正社員・物書きの端くれ

『読者に憐れみを ヴォネガットが教える『書くことについて』 
           カート・ヴォネガット&スザンヌ・マッコール 著
           金原瑞人/石田文子 訳
「いやいや、違う。誤解してもうらっちゃ困る。私は小説を書くことを勧めているのではない――きみたちは、ダンスの仕方や、フォークの使い方を学ぶのと同じ理由で、世界を見る必要があるのと同じ理由で、書かねばならない」
「書くことは魂を育むこと」
 心優しきニヒリストで、教師としては熱血漢。彼の文芸創作講座の教え子がまとめた、ヴォネガット流。創作指南+回顧録的文章読本。

 アイオワ大学の文芸創作講座で、小説形式論という科目があった。カートはその科目で、チェーホフの短編小説を教えていた。私はその小説のねらいいがよくわからなかった。なぜなら、あまり何も起こらない話だからだ。
 ある思春期の少女がいろいろな少年に恋をする。少女は小さな犬か何かを指差して笑う。それだけだ。葛藤もないし、劇的な転機や変化もない。カートはこう指摘した。その少女は、人生の盛りにさしかかった純粋な喜び、生気に満ちていく喜び、ロマンスが期待できる喜びを、表現する言葉を待ちあわせていない。口では言い表せないその喜びが、おもしろくもないものを見たときに、笑いとしてあふれ出す。
 それがこの小説で起こったことだ。その少女が生き生きと喜びにあふれている様子を、カートはとてもおもしろがっていて、それは学生にとって、とても励みになるものだった。そのおかげで私は、このような何でもない瞬間でも、捨てたものじゃないと教えられた。そういう瞬間も、小説にする価値があるものなのだ。
                            (本文より)

『志村正彦全詩集』 フジファブリック
 
 ないかな ないよな 
 きっとね いないよな 
 会ったら言えるかな
 まぶたを閉じて
 浮かべているよ
 
 フジファブリック志村正彦没後10年(新装版第一刷発行時点)。彼が書き遺したすべての歌詞を収録した永久保存版詩集。貴重な手稿を加えた待望の新装版。

 志村正彦(しむらまさひこ)
1980年7月10生まれ、山梨県富士吉田市出身。
2000年、ボーカルとギターを担当し、フジファブリックを結成。
以降、メンバーチェンジを経ながらも、バンドの中枢として
ほとんどすべての楽曲の作詞、作曲を手がける。
インディーズアルバム『アラカルト』、『アラモード』の発売の経て、
2004年、シングル『桜の季節』でメジャーデビュー。
同年、ファーストアルバム『フジファブリック』発売。
繊細な風景描写や実体験をモチーフにした切実な心理描写、
独創的で突き抜けた歌詞表現が高い評価を得る。
2005年、セカンドアルバム『FAB FОX』発売。
2008年、サードアルバム『TEENAGER』発売。
2009年、4枚目のアルバム『CHRОNICLE』発売。
2009年12月24日急逝。
2010年、残された楽曲をフジファブリックのメンバー3人が完成させるという形で、5枚目のアルバム『MUSIC』発売。今もなお、新しいファンを増やし続けている。

 最後に一言。
「若者のすべて」は21世紀最高の文学だと、個人的に思う。

『東京、音楽、ロックンロール 完全版』 志村正彦

「ロックにすべてを捧げた異才、志村正彦の全日記集」

 志村正彦初の著書『東京、音楽、ロックンロール』に、「志村日記2」と生い立ちを語った20000字インタビューを加えた増補改訂版。
 
 メジャーデビュー以降の5年間を綴った日記+裏話満載の30000字振り返りインタビュー&秘蔵写真。そして、2009年5月から新たにスタートした「志村日記2」と、『ROCKIN′ON JAPAN』誌面で生い立ちを語った20000万字インタビューも収録。ロックにすべてを捧げた異才・志村正彦と、ロック界の異端バンド・フジファブリックの6年間にわたる喜びと苦悩と妄想の日々――

『志村正彦全詩集』と共に購入した一冊。不思議と魅かれる人です。音楽に明るいわけじゃないが、この人は特別な人だと、直感的に思った。
 もしも生きていたら、日本の音楽シーンは少し、変わっていたかもしれない。だが、「もしも/IF」なんて存在しない。運命なんて軽い言葉で人の生死を語りたくはないが、科学で何もかも解明されそうな現在にあって、何か、超常的な巡りあわせがあるのかもしれない。
 志村さんはもうこの世にいないが、その音楽が人々の心に届きつづける限り、本当の意味で死ぬことはない。
                           (なんてね。)

<ソーセージを炒めて白飯で喰らう37歳>

 読んで字の如くで、それ以上でもそれ以下でもない。年の割に腕白にもほどがあるが、すでに5000字を超え、空腹がイライラし始めており、なんというか限界である。かと言ってこのまま終わっては物書きの端くれかつ雪国出身の私(大嘘)としては、忍びない。気まずい。途方に暮れる。
 気を取り直す。バッキバキのアラフォーである事実に恐れと喜びを感じつつ、ソーセージと白飯の魅力を語ろう。
 ソーセージがスタイル抜群の美女だとしたら、白飯はソフトマッチョかつホワイトイングされた歯が眩しいイケメンといったところか。その二人が合わさったら、あまりのお似合い具合に嫉妬すらできない。将来有望な愛の結晶であるベイビーが誕生すること、うけあいである。
 弾ける皮、弾ける豚の旨味、脂身、完璧な塩味。それらを受け止める白飯の甘味。その無限ループは極上の幸福感を呼び起こす。
「あぁ食べた。食った食ったわぁ」
 そのシンプルな美味さコンビネーションは、無類である。
「あぁこれから食べちゃうんだ(恍惚)」
 という高揚感は、
「あぁこれからシちゃうんだ(興奮)」
 という性行為の手前のワクワク、ソワソワ感に似ている。食欲と性欲は男性の場合、密接に関係しているらしいが(聞きかじり)、食欲旺盛な私はどうなのか。待った。話題が卑猥に逸れている。
 閑話休題。ともかく、今日の夕食はソーセージと白飯である。いつまでこんな食事を楽しめるだろうか。いつしか胃袋と腸がそれを許さず、小さい魚と汁と雑穀玄米しか受け付けなくなるのか(それも嫌いではない)。
 嫌だ。食欲は性欲であり、生命力の象徴である。いつまでも生き生きと、生きていきたいのです。
 そう心を燃やして、風呂に入り、飯を喰らい、処方されし鼻炎の薬を飲み、ネットサーフィンと読書と共に夜が更けていくだろう。
                           (おちまい)
 
                
 
 
 


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