あまりに、あんまりな休日

「さて。今回は一時間半、もらったぞ」
 休日泥棒は私の日曜日から、また、時間を奪っていった。悔しい。その手口は鮮やかなものだ。こちらにその気がないのに、気配もなく忍び寄って、テレビを点ければ、「路線バスの旅」で徳光さんが笑っていた。午後二時から四時半という魔の時間と戦おうと、読書を始めた。しかしそこはベッドの上、干したての布団の気持ちいいこと。昼からビールで万事休す。
 こうしてまた、あんまりな、冴えない休日であったと書くことになる。もはやレギュラー企画の様相を呈している。やはり、外へ出ないと避けることは出来ないのか。それは少し考えたが、今度の木曜日、勤労感謝の日は映画「首」を観に新宿へ赴く。故に金は使えない。ただ外を歩き回るような頭ハッピーセットおじさんではない。
 外出しないのなら、ベッドのある自室ではなく、縁側に椅子でも置いて読書に勤しめばよいのでは。とにかく、布団の上というのがよくない。休日泥棒はベッドに住み着いているに違いない。
 ここで、今日、買ってしまった本を紹介したい。

『物語として読む 全訳論語 決定版』 山田史生

「他人から学ぶばかりで自分で考えなければ、その知は浅い。自分で考えるばかりで他人から学ばなければ、その知は狭い。」
 論語は儒教の経典といった辛気くさいものではなく、ひどく身につまされる教えにあふれた人生の指南書である。そこで語られる孔子の言葉は、どれもみな「ひとりごと」ではない。いましも師から弟子にむけて発せられつつあるライブの肉声をすくいあげたものである。その言葉はピチピチと息づいている。
 と、帯に書いてありました。積読が豊かになって仕方がない。買わずにはいられない性分だから仕方ない。今度の木曜日、新宿でも買ってしまうだろう。そろそろ本の置き場を考えないと、本に埋もれた生活になってしまう(すでになっている)。一方で、積読は私の乱読生活を支えている。
 小説「未秘のマクベス」と「コンテナ物語」を軸に、「戒厳令下の新宿 菊池成孔のコロナ日記」をつまみながら、「現れる存在 脳と身体と世界の再統合」と「スピリチュアルズ「わたしの謎」」を読み、「校閲至極」もちらほら。「中原中也全詩集」は、大事に少しづつ染み込ませるように、読む。自分の中にいれていく。時に拝借する。
 
 閑話休題。「休日から一時間から一時間半消える問題」の根本的な原因は、間違いなく、ベッドの上にいるから。今日で完全に確信。うすうす気づいていたが、やはり、買い物へ行き、帰ってきて酒を呑んだらそりゃ、寝るわね。昨日は充分に寝たはずなのに、この様。
 青年よ、本を持って、外へでよ。
 と、宣言して、その日(二十六日)になったら雨で、結局はベッドの上で、休日泥棒の餌食。いつかはこのループから抜け出したい。それが出来たとき、何かが変わる気がする。他方、この愚図さがnoteのネタになっているのも事実。ネタに困らないために、視野を広げたい。広く、深く、鳥瞰的な感覚で世界を見たい。そうすれば、ネタに困るなんて煉獄はない。

 そもそも私はどんな休日なら、満足、充実となるのか。朝も早くから草枝刈り、トイレと部屋掃除と手際よく済ませ、少年が如く家を飛び出し、夕方五時半くらいに帰ってくる。風呂を焚いて、そのあいだにnoteを書いて、温まって、ビールを一杯。夕食。読書。ゲーム。ネットサーフィン。
「本当にそうだろうか」
 昼寝。休日にしか出来ない、特別な行動である。平日の午後二時から四時半など、完全に稼働中。寝る暇はない。或る意味贅沢で、平和の証明。そう考えたら、休日泥棒が義賊に思えてきた。そうすると、私は峰不二子かクラリス・ド・カリオストロか。何にせよ、この「日曜定番」と化した「休日シリーズ」は、しばらく書きたくない。飽きた。
 さて、もう十八時。書くことも尽きた。
 筆を無限大の彼方に投げ放つ。もう終わりで、また明日。
 
 

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