停滞文学

 私が週3回、火・水・木曜日にショートショートを投稿して1年を軽く超えた。つまり140本以上で、仮に平均1000字として、14万字。
 四百字原稿用紙350枚分、余裕で単行本一冊分に相当する。
 これだけ書いておいて、中々の停滞ぶりである。
 水の濁りは昭和のドブ川に等しく、饐えた香りが鼻を折る、そんな、身悶えする煉獄。その住人たる私は、どこまでも愚直に書き続けることで光りに辿りつくと信じ、キーボードをたたいてきた。
 兎に角打率が低い。
 体感では三割をきっているように思われる。翌日読み直して残念な思いをすることがあまりにも多すぎる。
 そんな私がどのように「下手な鉄砲も数撃ちゃ当たる」な創作をしているか説明しよう。
 火曜日から木曜日は平日であるから、職場から帰宅し、夕食と風呂を済ませ、テレビとパソコンをつけて、noteにログイン。
 後はユーチューブ動画を観たり、読書しながら、適当にタイトルをでっちあげて、ふんわり構成を考えて書く。ダラダラ書く。推敲する。
 まるで男の料理である。
 フライパンに適当な肉を放り込み、にんにくのチューブ一本と唐辛子をぶち込み、醤油とめんつゆで仕上げる。投げ槍ともいうべき、手法である。
 現在の私を支配するのは、
「惰性」でしかない。
 これまで続きてきた習慣や癖を、消極的に維持しているに過ぎないのだ。確かに、金曜日から日曜日はエッセイ、月曜日は「週刊・我がヂレンマ」と、毎日欠かさず書いてはいるが、それは最早、努力とはいえなくなった。
 努力が日常に溶けきった今、
 進歩という成果がほしい。
 進歩とは何か。
「自分が納得できる、質の高い作品を継続できる状態」
 そもそも自分自身が「面白い」「感動する」「感性を刺激される」と思えなければ、他人の心を動かすことは不可能である。
「それでは、投稿している意味がない」
 なんて、書いてみたが、停滞という名の腐泥から抜け出すには何が必要だろうか。ショートショートを読み漁るとか、書き方を学ぶとか、ありきたりな方法で巧くなるのだろうか。それは残念ながら、一年前あたり前、一時期やっていたのだ。
 具体的には、星新一先生の作品を分析して、手法を具体的な言葉にしてそれを道具とする。
 いかにも良さげな方法に思えるが、結果として、
「星新一の亜流の劣化版」にしかならなかった。
 当然だ。
 私は星新一先生ではない。
 私は何者か。
 書く、ということは
 考える、ということだ。
 何が好きか、何が嫌いか、興味があるか、何を面白がっているか、何に感動するか。自分への問いかけを続けているのだ。
 虚空に響く声に耳を傾ける。
 答えを出す。
 その為の「停滞」である。
 芳醇なる停滞をするために、読書の秋がやってきた。読むペースが遅い私だが、スピードをあげて貪っていこう。そして、気合をいれて記事を書いていこう。
 そんな決意もほどほどに、集中力が切れてきた。
 悪しき思考パターンにハマりだす私。
 もうテレビに集中しだしてる。
 やべぇよ。
 だからショートショートの質が上がらないのだと、自戒し、すぐ忘れ自壊する。もう粉々。すでに瓦解したモチベーション。
 しかし『停滞文学』と書きだすぐらいには、危機感があるのは事実です。
 このままでは「厳しいって」
 危機感・常時です。
 常時・危機感を抱いているからこそ、慣れてしまった自分がいる。危機感をもっていることに満足し、今に至るのだ。エッシャーのだまし絵のような世界に囚われている。
 このオチのない文章をそろそろ終らせる時がきた。
 公開に進めばよいのだが、何とも言えぬ残尿感がチトきしょい。
 よっしゃ。短歌でも歌ったろ。
 詠います。

〇振り返る反省したとて変わらない 現実憂う「破壊願望」


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