聖人君主は不穏すぎる

 人の悪口も言わないような、笑顔が素敵な奴は不穏すぎる。人間は基本的に欲を理性で被せ、澱んだ内心を隠し社会生活を営んでいる。故に「はじめてのおつかい」のような、純粋な幼児の心に触れたがる。その清廉さをほんの少し取り入れることで、均衡を保つ。一方で三人寄れば人の悪口、一人スマホで他人の悪口、何かにつけて魔が刺す。それが普通の人間。
 しかし稀に、どの角度から見ても清く正しい人間が存在する。人生をすべて滞りなく、万難を排し、塵ひとつない家に住み、将来に向けての備えも万全。浮気もせず、人付き合いも良好、そして笑顔が素敵。
 彼らはどこで、自身の「澱み」や「濁り」を吐き出しているのか。きっと、秘書と不倫したり、裏で幼女と売春したり、商売敵を陥れたり、何かやっているに違いない。そうでなければ、どこかで限界を迎え、事件を起こしかねないだろう。そんな負の可能性を感じさせない、聖人君主。
 得てして、彼らは誰にでも優しい。オーガニックコットンで構成されたハンカチを差し出してくれる。これは成功者の余裕からくるものか、生来の性格からくるものか、判然としない。ただ、不穏すぎる。
 これは不要な妄想だろうか。
 いや、単純に怖い。これだけ欲望で澱み切った世界で、平気な顔して清廉としている人間なんて、サイコだ。おそらく、産まれから幼少時、そして現在に至るまで完璧がすぎて、少しも道を外すことができない、籠の鳥なのだ。傍から見れば美しい事この上ないが、本人からすれば息苦く、人生を投げ出したいとか妄想している、かもしれない。少しは欲望に任せて、失敗して、自分が普通の人間であると、安心したいのかもしれない。
 だが、世間体が作り上げた上質な人生がそうはさせない。人は、何かしら苦悩があるものだ。人は、簡単にカテゴライズできるほど単純ではない。
 多面的かつ多層的で、中心に人格の核を有し、それがその人の本質である  と、私は、高卒の頭脳で考える。
 
 何故、このようなことを考えたかというと、noteを書き始めて百日を超えて、人間の心や性質に対して、前にも増して興味が湧いているからだ。それ がどうしたと言ってしまえば、そこで終わりだが、事実だから仕方がない。
 ただ、その興味本位が創作の源になるのではと、少し高揚している。というわけで、それが今後どのような作品になるかは、乞うご期待。

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