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私的言語の不可能性(L. ウィトゲンシュタイン)

ソクラテス:今日は、20世紀を代表する思想家の一人、ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタインさんと対話を重ねていこうと思います。彼は言語哲学における重要な論点、特に「私的言語」についての議論で知られています。ウィトゲンシュタインさん、私的言語について教えてください。その概念はどのようなものでしょうか?

ウィトゲンシュタイン:ソクラテスさん、この話題を選んでくださり、ありがとうございます。私的言語とは、その言語を使う人自身にしか理解できない、極めて個人的な言語のことを言います。例えば、ある人が自分だけの感覚や体験に基づいて独自の符号体系を作り、それを使って記録をつけるとしましょう。この言語は、他の誰にも理解できません。私は「哲学的探究」の中で、このような私的言語は実際には成立しえないと主張しました。

ソクラテス:なるほど、非常に興味深い概念ですね。しかし、ウィトゲンシュタインさん、その言語が成立しえないというのは、どういう理由からでしょうか?

ウィトゲンシュタイン:言語は本質的に共同体的なものです。言語の意味は、人々がその言葉を使って何をするか、つまり言語行為によって成立します。もし言語が私的なものであれば、その言語を理解する共通の基準が存在しません。自分の体験を指し示すために私的な符号を創り出したとしても、その符号が本当に自分の体験を正確に指し示しているのか、他人との比較ができないために検証することができません。

ソクラテス:確かに、言語がコミュニケーションの手段である以上、共通の理解が不可欠であることは理解できます。しかし、個人が独自の体験を表現するために新しい言葉を創出することはよくあります。そのような言葉も、ウィトゲンシュタインさんの言う「私的言語」に含まれるのでしょうか?

ウィトゲンシュタイン:その点については、個人が新しい言葉を創出する場合でも、その言葉が他人に理解されうるという前提があると考えます。もし他人がその言葉の意味を理解し、使い始めるならば、それはもはや私的言語ではありません。私が問題にするのは、絶対に他人には理解され得ない言語、つまり共有可能性が完全に欠如した言語です。

ソクラテス:共有可能性の欠如が私的言語の問題点であると。しかし、自己の内面的体験を他者に完全に共有することは、実際には非常に困難です。この点では、私たちの言語は常にある程度「私的」なのではないでしょうか?

ウィトゲンシュタイン:確かに、内面体験の完全な共有は困難です。しかし、言語はそのような体験を指し示すための「道具」です。私たちが他人とコミュニケーションを取る際には、この道具を使って、できる限り自分の体験を伝えようとします。完全な共有は不可能であっても、ある程度の共感や理解を得ることは可能です。私が指摘したいのは、その共感や理解を完全に排除した「私的言語」は、その機能を果たせないということです。

ソクラテス:なるほど、言語の共同体的性質と、それによる意味の成立に重点を置いているわけですね。しかし、ウィトゲンシュタインさん、個々人が体験する痛みや喜びなどの感情を、他人が完全に理解することは難しいです。このような個人的な体験は、どのように言語で表現されるべきだとお考えですか?

ウィトゲンシュタイン:重要なのは、私たちが「痛み」という言葉をどのように使うかです。たとえ他人が私の痛みを直接感じることができなくても、私たちは「痛い」と言うことで、ある種の共通の理解を持つことができます。言語の役割は、個人的な体験を完全に伝えることではなく、共有可能な形で体験を指し示すことにあります。

ソクラテス:言語を通じて、私たちは自己の体験を可能な限り他者と共有しようとするわけですね。しかし、ウィトゲンシュタインさん、あなたの考えには、言語が常に外部的な基準によってのみ意味を持つという前提が含まれているように思えます。この点については、今後さらに深く掘り下げる必要がありそうです。私たちの対話は、言語とは何か、そしてそれがどのようにして私たちの体験を形作るのか、という根源的な問いに対する理解を深めるための出発点に過ぎません。ウィトゲンシュタインさん、本日はこのような刺激的な対話をありがとうございました。

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