きっかけ
「せっかくだから口紅を付けましょうね。」
平成元年。秋風が朝の冷たさを届ける。近所の小さな美容室。赤い口紅。ヘアセットと着付けが終わると、いつもと違う、特別な日がはじまりました。
その日は、短大の学園祭。所属していた茶道サークルでは、キャンパス内でお茶会を開催することになっており。着物でおもてなしをするために、早朝からの支度となりました。
母の友人から借りた、小紋の着物を身にまとうと、暖かく、引き締まり、着心地が良かったことを思い出します。何より背筋が伸びました。着物の窮屈なイメージはどこかへ行き、メークと着物で、華やかな気持ちになりました。
短大がある高輪キャンパスに到着すると、行く先々で友人達が、驚いた様子で、近づいてきて、「似合うよ」と、着物姿を褒めてくれました。洋服よりも歩幅は小さくなりますが、それほど歩きにくくもありません。通学時間は一時間ほど。時間が経っても、着崩れることもなく、着物を着ることに、自信を持つことができました。
さて、お茶会。場所は、講義室の入口前の小さなスペースに席が設けられました。柔らかい日差しの明るさの中、友人達が客席につきました。いよいよ、私のお点前のはじまり。お茶碗などの道具を運び、手順通りにすすめていきます。お釜の湯を柄杓ですくい、茶碗に溢し、柄杓をお釜の口に引っ掛けるように戻す……はずが、「ポチャン……」。
引っ掛けられず、聞こえるはずがない音と共に、柄杓がお釜に沈むではありませんか。思わず、私の手は、お釜の上で腕を上げたまま静止してしまい、その瞬間、友人達が大笑い。失敗した恥ずかしさと、お点前の緊張から一気に解放されて、忘れられない、印象的な楽しいお茶席になりました。
その友人達と、モノクロフィルムで撮影した写真が残っています。着物姿の私は母親役。おさげ髪の長女に、活発な妹ふたり、父、そして個性的な兄弟……という、古き良き昭和時代の家族を装うもの。
あれから三十数年。着心地と、大切な友人との一日が、写真からよみがえります。帰宅するまで着崩れずに過ごし、着物を着ることに、自信を持てたことも。
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