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「まねる」ことから始めたら、書くしんどさは楽しさへ変わる。

観察力を磨かれていく。それが「まねる」行為である。私がそう感じた30年間の人生はムダじゃない。全てのきっかけは音楽を好きになったことから始まる。

当時ゲーム好きな少年が何気なくハマった”Final Fantasy”がある。そこには物語の中に散りばめられた数々のBGMの数々。私はゲームの魅力に惹かれ、次第に音楽の素晴らしさに気づいた。学生時代、音楽の授業では「音楽室」に足を運び、グランドピアノを目の前に私はワクワクした。「先生が来るまで時間はある、よし」。休み時間中、必死に覚えたBGMのメロディを私は鍵盤に落とす。「」をまねたことで、私は音を学び楽器を弾き、仲間とのセッションを現在進行中だ。

次は「」をまねる。学生時代というのはカラオケ熱が冷めやらない。歌うため、皆に披露するため、流行りもレトロも聴きこむ。自己満足の世界と言われつつも、やっぱり自分の歌で感動してほしいと感じるのは思春期の”さが”である。自分の好きなアーティストの声色をまねる。声の音域、声の柔らかさ、伸び、息つぎの感覚をまねた。アーティストが「どんな言葉を音でつなごうとしているのか」。歌い方に対する想いの微妙な変化を知ることができた。そしてなお、私は巷の「カラオケグランプリ」で挑戦を続ける。(決勝の舞台は遠いが。)

そして今は、「」をまねている。私にもこれまで会った素晴らしいと思える人が沢山いて、考え方を知りたくて観察をする。仕事を覚えたいと思ったとき、尊敬する上司の行動パターンと書面の文脈をまねた。ブログを書きたいと思ったとき、好きになったブロガーの執筆法と環境構築をまねた。「まねた」ことによって、彼らの価値観に触れた。目で観て、耳で聴き、感じたことを考える前に口を動かし、手指を動かした。そして”形”になったものを見て、自分の型がイメージできてきた。

自分とはどんな人なのだろう、どんなことが書けるだろうと悩むこともあるだろう。でも、頭で悩んでても始まらないし、「まねる」ことから始めることも悪くない。そうして自分の「観察力」が磨かれていく。観察したことから自分の中に「ぽっと」浮かぶ考察を固めていき、自分自身を作り上げていく。

今は少しずつ、書くことに自分の型がつくられ始めている。まだまだ先は長いが書くことが楽しい、一歩前進だ。

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