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第101回 「行儀のよい おとなたち」(「公共」研究チーム)

 第101回は「行儀のよいおとなたち」というインパクト大のタイトルで発表していただきました。今回は報告→2人で討論→質疑応答→議論という形で進んでいます。
 まず、報告者の先生の実践報告です。今年度は情報の授業を担当されているそうですが、公共の免許もお持ちで、昨年度の公共の実践を報告していただきました。公共の内容は面白いが、共通テストの圧を感じながら終えた1〜2学期の授業がつまらない!と3学期は設定したテーマについて、対話型論証の手法をとりながら自由なプロセス(調べる、図書室に行く、誰かに聞きに行くなど教室を飛び出してもOK)で学び、アウトプットの方法も、レポート、プレゼン、その他と生徒が自由に選べるスタイルにしたそうです。以前から学校には様々な制約があることに疑問を感じておられ、ゴールにたどり着くまでのルートはいっぱいあってよいはず!と生徒が学ぶ内容を自ら選択し、自分から知識に出会えるプロセスを楽しんでほしいという思いをもって自由に学べることを重視されました。ただ、最後に評価を数値化しなければならない。予め生徒に基準は伝えてあるが、その基準に沿っているかどうかを判断するのは自分の主観ではないか、ということに悩まれたそうです。しかし、この授業実践や評価について、周りの先生は誰も評価してくれない。「すごいね」「おもしろいね」という反応はあっても、悩みを解決する議論ができなかったということで、研究会で自作のワークシートも紹介していただいている先生と「批判的議論」に臨まれました。

― 以下、ワークシートをもとにした議論(A:質問、B(ワークシート作成):返答) ―
A:ワークシートの問いかけは抽象的なものが多いが、採点する?数値化する?
B:ワークシート自体は採点していない。
A:では提出をもって提出点するようなことはしない?
B:それはしてない。
A:なぜか。
B:学習プロセスは自由。だからワークシートは学ぶための手段でしかないので、その手段を通して身についた結果であれば評価の対象になるが手段に点数つけても仕方ないと思っている。
A:つまり結果があればいいのか。
B:採点や評価の対象とするのであれば、その結果身についたものを何か表現してもらって、それに点数をつけて返すのが評価のあり方かなとは思ってる。その途中段階の手段なので生徒がワークシートに何を書こうがそれは個人の自由だと思う。
A:となるとB先生の評価は、どこにウェイトがあるのか。定期考査か。
B:「この学習の結果、こういう問いに答えてください」と、論述形式や小テスト形式、図で提出など様々な形で学習の成果を表現させているが、テストの点数は大きい。ただテストだけで100点となると大きいので、それを防ぐために、単元末のパフォーマンス課題であれば、45点ぐらい配点する。
A:面白い実践をしまくってるB先生ですら、定期考査賛成派なのか。
B:賛成ではないが、学校の文脈にのまれているところはある。
A:定期考査の問題に正しい答えが一つではないものが入ることはないのか。
B:ない。定期考査は生徒の要望もあるが、最近は時短のために全て選択式。論述等は授業の振り返りの課題や単元末の課題で出している。
A:解答が一つに定まる問題しか出さないということか。
B:そう。
A:(カッコ抜きの問題を提示して)こんな問題は出してない?
B:これは出してない。生徒が『18歳を迎える君へ』(法務省)を見ながらまとめたらよいと思って出した授業の課題。
A:公共において、実際どんな場面でも空欄補充みたいなケースは今のところない。共通テストは択一式。
B:通ってる過程は一緒かもしれないけれど。
A:ただ、共通テストの場面っていうのはカッコが埋まっていて、それがどんな意味を示すのか、というのが圧倒的に多い。単語を覚えてることに価値がないというか。でも、なお、こういうのを入れるのか。
B:これはフェイクニュース!たぶん1年間のワークシートの中で、カッコを埋める活動をしたのがこの1枚だけだと思う。これを口頭で説明する内容ではないと判断したのと、就職する生徒が多いので、就職した先で、これは習ったなーぐらいの感覚でいてほしいという気持ちがあった。
A:目の前の生徒の文脈に応じてやることが変わるのはわかる。しかし、ワークシートには「1学期に学んだこと」「授業で獲得した価値判断」など、文字だけ捉えれば、その子のバックグラウンドや経験をないがしろにしてる感じがあるが、どうか。
B:文字だけ捉えればそうかもしれないが、実際の評価の場面ではそんなことはない。授業で獲得した知識以外を引っ張ってきてるからといって減点したりしない。ただ、やっぱり社会科は社会がわかる科目であってほしいと思う。今の社会は不寛容になっていて、実際の問題はいろんな利害関係者が絡んでいて、そんなに解決は容易じゃないのに、SNS等で安易な解決策にいいね!が集まるような、そういう社会になってる。そのいいね!みたいな直感や感情で判断してほしくない。授業でも、この問題は難しい問題とわかった上で、じゃあ、あなたはどうですかという判断をしてほしいっていう願いの部分。
A:では、例えばベンサムとミルを授業で取り扱った場合、サンデルに興味を持つ生徒がいて、サンデルのこと書いたら✕なのか。
B:✕ではない。
A:でも、「授業で獲得した」の文字面だけ読めば書けないではないか。つまりある生徒が思想、感性を出力する際、点数の評価を得るために違うことを書かなければならないことになる。
B:確かに、そこまでちゃんと生徒が見てくれたら書けない。
A:例えば数学は条件付がちゃんとあるが、社会の記述問題は後で条件が付けられるケースが多い。採点基準が抽象的。「自分事として」とあるが、自分事として捉えている表現のあり方は曖昧で全員"A”がつくのではないか。原因と結果が説明されていて図も提示されている。しかし内容が正しいかどうか判断するかは採点者の主観。
B:ルーブリックで採点基準を示している。ルーブリック自体は質的に見るもので、抽象的な書き方でよい。そこを限定するとチェックリストになる。◯✕で採点することになるので、それは質的ではなく量的に見てることになる。パフォーマンス課題の不良構造化問題というか、生徒の自由度が高い課題に関しては、採点の基準もある程度自由度が高い。こちらの採点の幅を持たせとかないとチェックリストになってしまう。これができてないから✕✕✕と、逆に全員Cになってしまうこともあるので、わざと厳密にしない。チェックリストのように厳密にしてしまうと
こちらの採点の時に非常に困る。絶対ここはできてるけど、ここはどうかなっていう微妙なラインが出てくるので、それを包含していく。全部見とっていくにはある程度抽象的な表現に留めておく。ただ、ポイントとして、どういう表現を求めるかは、明示するようにしている。例えば「私は○○に取り組む」と書けていれば最低限"B”、「社会全体としてはこういうことをやっていくべきだ」まで言及できてたら"A”、そういう評価の方法。ルーブリック自体がそういうものだと私は思っている。ワークシートには見本を付けている。生徒がなんとなく「こうかな」とイメージできたら見本を出して、生徒がどう書いてくるかを楽しみにしている面はある。
A:その生徒が書いてきたものを数値化してしまうのか?一人の採点者の感性だけで?
B:そもそも学校で行われてる評価で100%客観的な表現はありえない。客観的という言葉は評価の文脈で言えば、誰が採点しても同じ結果になるっていうことが客観的という意味。選択式、一問一答、穴埋め等あるが、これらも配点をどうするかは主観。重要だと思う問題の方が配点が高くなるとこの時点で主観。配点の主観をなくすために一問一答を100個出題したとしても、何を出題するかを選んでいる出題者なので、そこにやはり主観が混じる。現場で考えられている客観的は、実は客観的ではないという思いはある。だから、いろんな評価方法を混ぜないと生徒の学力は測れないと思っているので、パフォーマンス課題や他の課題を入れる。
A:そうあるならば、主観の精度を上げないといけない。つまり、より客観的に見える採点者の判断力が、限りなく正解や適正値はないけれど、それを高めようとする努力が必要ではないか。
B:学校で行われている評価自体が目標準拠評価。学習指導要領に基づいた授業者が掲げる目標、身に付けさせたい能力、それに対してどこまで到達しているか、どの程度能力が身についているか、何ができるようになったかを見るのが評価なので、正直、100%主観でいいと思う。
そもそもゴール地点目標地点を設定するのがこちらなので、100%主観でいいと思うが、A先生が言われてることも間違いない。生徒の能力を測るための努力は絶対し続けないといけないし、方法を模索し続けないといけないのは間違いない。
A:結局はどんな素晴らしい生徒も教師の手のひら上で踊っているような構造なのか。
B:それを変えようとするなら、例えばこの評価基準を生徒と一緒に作る活動ができると思う。悩まれていた、課題探究の評価をどうするか、の基準を生徒と一緒に作ることができたら、もっと探究的というか、評価の面でも生徒の合意が得られてた実践になったのではないか。学校によっては課題の見本を提示しても何をしたらいいのかわからない生徒はいるので単元末は生徒に時間をかけて助言しながらなんとか課題を完成させることも多い。基準も生徒と一緒に作れるようになったら、それだけ生徒の能力も高まるということだと思う。
A:確かに、生徒とともに評価基準をつくって自分がどう評価されるかも同時に合意をとってコンセンサスとって進めていくのはありかな、と勉強になった。
A:ちょっと喧嘩腰でかかったようなやり取りになったが、こんなやりとりを実際のそれぞれの現場でできたらなと思う。こんなやりとりをもっともっと大事にしていきたい。
A:この研究会も、とても素晴らしい発表と質疑を行っている。しかし、批判的に見ている人がいるだろうか。せっかくの実践をより良くするために、批判的に見ることは大事だと思っている。なかなかみんな批判しない。若かろうが歳をとろうが意見するのはいいと思う。その意見できない道具として、学校の文脈、学校に所属している人たちの圧、こういうことを言ったらあかんのかなとか、実績がないから言えないなとか、発表者が頑張ってるからそんな言ったらかわいそうとか、聞いてるだけでいいかなとか、それぞれの思いがあると思う。しかし、これでほんまに良くなるんかみたいなところが常日頃思うところ。意見しなかったり批判しなかったり、知ろうとしなかったから、今、国会含めやっぱり。現場から多少変わっていかないといけないと思う。というところで、意見する意見されることによって相互に高まる場を作るにはどうすればよいか、を話し合ってほしい。

― 質疑応答 ―
・発表者の先生の生徒の感情面を考慮するっていう観点がすごくいい。小論文や論述の問題で生徒の感情はどこまで残存するのか。理性的に抽象的に書けば生徒の個性が残るのか。→私の知識の向かい方は感情ベースなので、出発点に感情があるのではないか。そこからどんどん発してく中で文字からは感情がなっていくかもしれないが、出発点みたいなところが感情であれば、それは感情が常に生きていると読み換えてもよい。出力の方法は上品な学問的な感じにるが、その裏側ではちょっと汚いところが渦巻いてるみたいな。

― 以下議論(批判的意見を通して高め合う環境はどうつくれるのか)―
・心理的安心が担保されていない状況では批判的議論になりにくい。「教員」という立場からなのか、弱みを見せたくないという意識をもってしまい、自信のないところでは当たり障りない議論に終わってしまう。社会全体が弱みも見せられて批判的議論も受け入れられるようにならなければ立場の弱い人が助けを求められない不寛容な社会になる。自由に発言するためには発言者の人格まで否定してはいけない、ということを指導していかなければならない。まずは教員が自己開示するころができれば、批判的議論が可能になっていくのではないか。
・主観と客観の話が出ていたが、評価も含めて主観的にやればいい。主観的評価ができなくなってしまったらこの仕事は面白くない。教員免許をもらった時点でそれが許されているのだから自信をもってやるべき。そのためにいろんな教科があり、色んな先生がいる。
・批判し合えるためには人間関係が大事。キャリアの差などで意見のしづらさを感じる場面もある。議論するうえで隠し事があってはいけない。しかし批判することが目的になってはいけない。勝ち負けではなく、あくまでお互いを高め合うことを目的として建設的に議論しなければならない。
・ワークシートを批判的に考察していた。見せてもらったワークシートは、「こんな授業がしたい」と思う理想的なものだったが、それについてもまだまだ深められる、多くの学び方があるものだ気づくことができた。
・批判をすることを前提としない。まず狙いが前提。何を目的とするかをまず明確にしてから、その手段としての批判的に話をする。
・今日は社会科教育学というより教師教育学の方のご発表だったなと思って大変勉強になった。弱みの話、自己開示の話が本当にまさに教師教育ではなされている。
・報告者の先生のものの言い方とか批判の仕方がどうかと思った。批判のために批判するように見える。勝ち負けで言いまかしたいように聞こえる。自分を高めたい、学びたいのはいいが、まずは相手の論理を受け入れるべき。どういう子どもを育るかという目標があって、手段としてワークシートを使ったり、内容や方法が組み立てられている。「文脈」は逃げではない。学校は多様な条件の中、様々な制限の中でやっているので。しかし全体をみると目標と内容と方法がある。その論理に基づいての批判ならわかるが、揚げ足取りのようにしか聞こえなかった。しかし、それに対して返答する先生が丁寧にお答えされていたので、すごいなと思った。この研究会がバッシングみたいな批判にならないのは、それぞれを立てつつ、最後は改善案みたいなのをそれぞれが述べて、そういう意味で内在的にしっかり批判しているからではないか。その上で、その延長戦みたいなのがあって、もうちょっとバトルしたりするといいかもしれない。報告者の先生の授業を、どういう子どもを育てようと思って、どういう内容と方法でどうなって格闘されているかを整理できるとよい。そして「〇〇先生の社会科」でバトル(例えばどっちがより市民性を育成するのによいか、など)、できるとよい。
・1つ目に「先生」というのはやっぱり真面目だ。2つ目は、やっぱり先生は子どもたちの成長とともに自分の成長も考えている。

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