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第93回 「新課程における指導と評価の一体化― 公共を例に ―」(「公共」研究チーム)

 第92回は、公共を例にして指導と評価の一体化を報告者の先生がどう考えているのかをお話しいただきました。
 日々の業務量の多さ、多忙さで流れ作業で評価してしまっている部分がないのか、自分が何を教えたかったのか、何を身に付けさせたかったのか、に立ち止まって考えることで指導と評価は一体化していく、というお話は、生徒との向き合い方、授業のあり方を改めて考える機会となりました。評価は序列をつけるものというイメージが強いけれど、生徒の学びを支援するためのもので、自己評価や相互評価のように学習活動に評価する活動を組み込む方法もあります。単元の始めか、途中か、まとめの段階か、どの時期に評価するかでも全く意味が違うものになります。これらを適切に使い分けていくことで指導と評価の一体化に繋がっていくということでした。
 授業観、特に公共を取り上げていただきましたが、授業を通じて社会がわかる子になって欲しい、現代の課題を自分事として捉える子になってほしい、不寛容な社会を変えられる力をつけてほしい、という思いを思って授業をされているそうです。目指すのはなぜ?という問いに答えられるような概念的知識の獲得です。知識は思考の結果ついてくるもので、帰納的推論で身につけた概念的知識があると、生徒自身がこれから出会うであろう社会事象に当てはめて社会が分かるようになるのではないかと考えておられます。
 「転売は悪なのか?」という大テーマを考えるために市場経済の仕組みを学んだり、他の現代的諸課題を絡めて小さなテーマも扱ったりとご自身の授業のスタイルも紹介していただきました。その中で、評価において重要なことは生徒との合意であるということも教えていただきました。その後、社会科で育てるべき思考をどう定義しているか、それをどんなふうに授業や交差に入れて評価しているか、身に付けさせたい思考が育っていると感じるのはどんなときか、について議論しました。

― 質疑応答 ―
・思考を通して知識を身につけるのが報告者の手法だと思うが、知識をつけてからでないと思考できないという意見もある。知識がないとそもそも読解ができなかったり、アンテナにひっかからなかったり。バランスではないのか。→バランスだと思う。知識があれば思考の質は変わる。ただ、学ぶ意味がわからないまま一方的に知識を与えられても身につかない。考える機会や問いの投げかけで答えが出ず、よくわからない状態になった時に知識が与えられるとよいのではないか。先生がしゃべったからといって知識が身につくわけではない。
・社会の課題を自分事として捉えるということをよく聞くが、「自分事」とは何か。→主語が「私は」になることだと思う。社会の事象を「誰かがやってくれる」ではなく「私はこう思う」と言えるようになること。社会課題は複雑に絡み合って簡単には解決しない。生徒から「ムッズ―」の言葉が出たら、複雑な関係構造や原因と結果を理解して立ち止まってる証だと思う。
・自分事としてとらえることの評価はどうなるのか→伝わりにくいのでルーブリックで示している。これは「主体的な態度」で評価。「自分はこんなことに取り組む」という表現があればB、そこからさらに「自分はこうだけど社会全体ではこうすべきだ」のように社会の仕組みで解決するところまで言及できてたらA。
・公共の大項目(A)にはどれぐらい時間をかけたのか、(C)をする予定はあるのか。→(A)に1学期全部かかった。時間数が少なかったことやタブレットの設定に時間がかかった。でも10時間程度でできると考えている。(B)については、実業高校でキャリア教育的側面とも絡めていきたいので経済が分厚くなる。(C)は残りの時間でやる。ただ、生徒は探究の時間に地域の人の困っていることを伺って解決する(例えば電気科の生徒なら家電の修理を請け負う)取り組みをしており、十分公共の(C)に該当すると思っている。そこに繋がるような(C)の設定ができればいいかな。
・ほとんどの教員が「資本主義は〇〇だ」のような教え方になっていて、報告者が提示したような小さな問いができない。なぜできるのか。→先行実践の本はいっぱい見た。指導要領も教科書も見た。法務省が出してる法教育、金融庁が出してる金融教育、消費者庁が出してる消費者教育の資料は大体見ている。そこから面白そうなトピックを選んでやってる。
・「私が考える思考力はこうだ」「知識はこうだ」など、定義するのは簡単ではない。報告者は定義づけするためにどんな風に勉強されてきたのか。→大学生の頃、「社会科ってそういうものなんだ」と指導を受けたり勉強する中で納得したところがある。理論が中心にあるので、社会科で身につけるべき思考は?と言われると先行研究の引用。報告の中で紹介したものはとてもわかりやすくて共感した。
・生徒の発見力、仮説形成力を培うにはどうすればよいか。多くの事象から一般法則を導くためにどんな工夫をされているか。→追い発問をすることが多い。「これ何でやと思う?」に対して生徒は口々に予想を言うので一緒に検証する。生徒とのやり取りの中でつくられる。高校の授業はその時間で教えたいことは決まっているので、メインの問いを投げて、その後、小さい質問をいくつか投げながら伝えたい内容まで生徒の思考を誘導している。
・公共と歴史系の科目では、授業の目標や思いは異なるのか。→社会が分かる人になってほしいというのは共通している。公共は現代の問題を現代の視点で考える点が他との違い。時間軸・空間軸を踏まえてわかる人になって欲しいと思っているので公共は歴総や地理総を学んだあとがいいと考えている。
・報告者の目標意識は、どのように形成されたのか。どうすれば自分の中に確固たるものとしてもてるのか。→経験によるもの。感情ももちろん大事だけど、そこから一歩引いて社会を考えてほしい。社会の不寛容さを見直してほしい。
・そもそも社会科のあるべき姿を議論する必要はないのか。暗記させたい!網羅的に教えたい!という信念をもつ人がいたらどうか。→結果、穴埋めをしているけど、授業は生徒との対話で進めていたり、もっと生徒と対話したいし、やりたいことがいっぱいあるけどどうしていいのかわからないという若い先生がいたりする。暗記と一問一答を心からやりたいと考える人に出会ったことがない。
・学生の中には塾のような授業を求めたり、暗記の授業をしてくれると安心という生徒が一定数いる。「普通の授業」「普通のテスト」など「普通」という反応が高校生に多いという研究発表もあった。→「授業に参加していれば一夜漬けの必要がないからこのテストでいい」という声は多かったが、テストについて生徒とコンセンサスが取れているかどうかではないか。

― 以下議論 ―
・生徒の興味があるものから入る。例えば、BTSがなぜ国連総会でスピーチをしたのか、どうして彼らが呼ばれたのか、スピーチの内容は何か、世界に与える影響はどうか、という流れで話したり。最初に生徒がどの程度知識をもっているのかわかった上で自分事にしていくようにフィードバックしていく方法も大事。
・思考力がついたかどうかは見えにくい。そのもどかしさを教員は抱えている。ぶつ切りにされた知識を自分で使い出す。社会のシステムを理解してよりよい社会を提案できたときに自分事になっているのではないか。
・教員が求める思考が育っていると感じるのは、授業で学んだ内容が「現代を生きる私たち」で応用されて自分事になっているとき、主語が自分になった形で感想が出てきたとき、どちらにも進められないようなジレンマに陥ったとき、など。
・授業アンケートで「教員が生徒に身に付けさせたかった能力は何か」を聞いた時に自分の思いに沿ったことを書いていたら伝わったという感覚がある。生徒が不寛容な時代にも自由な発想で生きていけるということを念頭において授業をしている。
・授業者がそれぞれに目標と哲学をもって取り組むことが必要。問いに基づいた授業はみんなが挑戦するべき課題。恥をかく覚悟を持っていれば問いを出して考えさせることができるのではないか。
・育てたい力を評価する。子どもは評価されるものを身につけるし、されなければ身につけない。自分がどういう教育をしたいかが評価のいちばん大事なところ。それが3つの観点に配分されていくとバランスがいいのではないか。
・例えば歴史総合では、「問いをや疑問をもって自分事に→歴史の中身を知る→みんなで近代化や現代の諸課題を考える」という設計だが、教科書は中身のところが分厚い。本当はおまけみたいになっている最初と最後を大事にしたい。

参加者21名

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