所長、訓練結果を報告いたします。

地元を離れて大学に入り、早速、ひとりでウインドウショッピングをしながら「気になる」を実行する訓練をしていた。

足を止めて気になるものを素直に手に取ることができなかった。

だから、それまでは気になっても素通り。

そこで、ひとりウインドウショッピングはとっても都合がいいと思いついた。
ひとりだから一緒にいる人に気を遣う必要はない。

気になったけど立ち止まれなかった、というのも大丈夫。
ぐるっとまたそこに来ればいい。

立ち止まれるようになったら、他のお客さんに怪しまれないように商品を眺めるフリをする。
これも慣れるまで冷や汗をかくけど、大丈夫だ。
周りからは買うかどうか悩んでるただのお客さんのひとり。
目立つ行動とは言えない。

眺めることに慣れてきたら、手に取ってみよう。

とっても不安だったけど、繰り返していたらぎこちなく足を止め、少しもたついた後、ぐるっと気になるものに目を向け、恐る恐る触れられるようになった。

(やっぱり挙動不審だったかもしれない)

とっくに大学を卒業した今は、結構スムーズに商品を眺めて手に取ることができるようになった。
たまに素通りしてしまうけど、人間完璧ではないと自分を許している。

この訓練のおかげで、趣味ができたりと人生が少し豊かになった。

その次は、「嫌」と思うことを訓練した。

社会人になってからもそれができていなくて、嫌だと感じた瞬間に解離して無かったことにしていた。

だから、嫌なものに費やす時間が多かった。
そして不快になったり不安定になったりしていた。

それがとても無駄だと思って、今度はネットで訓練した。

いろいろネットサーフィンしている中、嫌なものも嫌だと思えず、情報に受動的だった。

それを、嫌だと思ったら見ないように訓練していった。

初めは「嫌かも?」に気付くまで時間がかかった。

でも、嫌かも?に気づいたらそのページをバックしたり、見ないようにした。
ライブ配信を聞いていても、嫌かも?と思ったら、「あ!聞かなきゃいいんだ!」と思い出して聞くのをやめた。

段々、「嫌」、「無理」、「不快」ってすぐにその情報から離れられるようになった。

今やSNSを使う時も、平気でバコバコミュートする。
Twitterならリストを作って、見たいアカウントだけ追加して見る。
※最近はSNS自体をほぼ見ていない

もしミュートを気づかれても大丈夫。
まともならそっと距離とってくれるかそもそも気にしないし、怒ってきたり陰口叩いたりするならまともじゃないんだと分かる。

そしてまともじゃない人は私だけにそういうことをしているはずがなく、なんだか常に誰かかんかに"自分から"絡みに行ってたりいつの間にか誰かのフォロー外していたりとSNS上の行動が不安定。

(何故そこまでSNSに執着しているのか疑問。リアルはどうなっているんだろう。)

そして、私は自己主張の枠の中でなら嫌だと発信できるようになった。
このnoteでもあれが嫌だこれが嫌だと言いまくれているのは、訓練結果でした(これからは、発言しすぎずに「嫌」を消化できるようなスキルを育てたい)。

そんなこんなで、情報に対して能動的になって、距離を自由に保てるようになった。

でも、情報への関わり方が整った程度の段階であって、実際にコミュニケーションをとる中で突然嫌なことが起きた時、まだ嫌だと言葉にできない。

嫌と言って暴力をふるわれ続けた子どもの時の記憶を心が忘れても身体は忘れない。

その副作用で被害妄想が私は強く、嫌だと言って恨まれるのが怖いと思い込んでいる(自分に強い暴力性があることの裏返しでもあるし、他者との境界線の薄さでもある)。

それにつけ込む人はとっても多いけど、私は何も言わず消えている。
そのまま誰にも注意されず不幸でいてねって思っている。

少ないけどつけ込んでこない人もいて、「嫌だと言っていいんだよ」と伝えてくれる人には時間がかかっても嫌だったことを伝えている。

ただ、もし深く踏み込まれて質問されても答えずに誤魔化した方がいいかもしれない。
悪気なく、心的外傷のある人にかけてはいけない言葉をかけてこられて心がジクジクしたことがある。

相手は良かれと思っているし、そんな病理が身近に存在することを知らないゆえに何も言えない。

分かってもらうには膨大な個人の精神的犠牲が必要であり、そして相手の知識量や理解力や経験や肯定的な興味が最低限必要であり、それが揃っていたとしても必ず分かってもらえる訳ではないため、実行するのは無謀に近いと思われる。

一転して最悪な事態は、見過ごせないほど嫌な思いをして、かつ嫌だと言える関係性にない時、相手をズタズタにしてしまうこと(解離して暴力的なパーツに変わる。普段怒らない人ほど怒ったら怖いの病的バージョン)。
それは自分も傷付けている。
殴ると相手も自分も痛いのと同じ。
そして、やり返し過ぎはどんな理由があろうと言い訳にしかならず、過剰防衛と見なされて終わる。

そんな悲しい事態を防ぐために、私は嫌だと言えるようになるべきだ。
それは紛れもなく自分のためだ。

そして、人の弱さにつけ込むような甘えた行動はとらない方が安全だと思う。
いろんなトラブルのもとを事前に学んでおくことは私にも必要なこと。

これからは訓練より、私自身を癒したり(やりたかったことをやったり、やりたくなかったことをやらなかったり、悪い人を悪いと主張するなど、一見わがままで甘えた状態に見えるかもしれない)、自分に合わせた環境を見つけることが要になってくると思う。

訓練という自助努力には限界があって、そして時間や気力体力が膨大にかかり、しかも効果はこの程度なのだ。

やらないよりはずっと良いし、この過程に学びはあったと思うからお勧めはしたいけど、もし自助努力だけに比重をかけすぎていたらふと立ち止まってバランスを考えてみてもいいかもしれない、と私は思います。

報告は以上であります。

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