66.カフェインレス中毒

想起するままに書き綴ってみる
可能性を残しておくこととか余地を残しておくと言うことが誤りだあるとき、ケースを見ていくとたとえば。時間切れ
ないものを想定するのはあるかもしれないが、あるものは認める、ということが正の時に。
思いつくままに筆記してみたものの、それがいいということばかりでもなく。
実生活的には、時計を見て、その時間ではないかもしれない、ということは平時はとおらないという条件をいえる。
ここで、何を言いたいかというと。たとえば、論破ということもあるが、それがマウンティングの傾向を帯びているときには、実際の指摘内容が厳密ではないのではないかという想定。
これは、比較して違うという対象が、印象自体ということではなく物的にもなにか違う条件があるのかどうかと言う問い。
一つの命題というのだろうか、言い方わからないが。
 以上をこのブログテーマ的なフォークロア主題でカテゴリーすると、『再生と複製の技術』というミラクル。
メディアにおいてこのことがふつーに行われている実生活てき甘受があるが。物的な複製品があり、偽だかわかるということがある。それは作品の原作というくくりかたで言うが、それとおなじだということをわかるというキーがある。物的認証ではなく精神文化範囲を心理的に把握している実際がある。(たとえばフィギアとか作画崩壊してると文句来るみたいなやつあるけど。作画崩壊とは言い方違うか、キャラの顔の造形があきらかにちょっと、、みたいなやつとか。話それたから括弧でくくるが、サブカル乗りがでてしまった)
たとえばこのことが甘い認知だとして、物的にも証明しうる明らかな違いがあるのかどうか。これはたとえば事件においての証拠があるなしのテーマでもある。
極端な話、物的なことに関連した発展が人類にプロミスされていること、といった説。
心理的な客観性の問題もあり、精神的痕跡が、物的に証明できても、逆にその物的な要素が当てはまるからと言っておなじ心理性であることとするミスがでることがあげられる。

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