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必然的なもの

-何度も書き直した「事故報告書」


前の記事で触れた痛ましい事故。園に帰った私は当然目撃者として、また応急処置に駆け付けた者として「事故報告書」の記載をしました。

私としては、包み隠さずに事故の本質に触れた方が良いと思い、保育士の連携不足がいちばんの理由として挙げたものの、担任が10を数え出したのを見て焦った子どもの姿(実際見ていたそのまま)についても、ありのままに書いたつもりです。

しかし当時の園長たちは納得がいかないようで、私の後方確認が至らなかった点を強調し、その子が慌てて走ったか走らなかったか、何処にどうぶつけてその場所の材質が何であったかなど、細かい点を思い出して書き直す様に命じました。

私が狭い部屋に閉じ込められて何度も書き直しをさせられた事故報告書は、私から言わせれば事実を歪曲したもので、園側が取ろうとしていた「誠意のある対応」とは到底かけ離れた代物でした。

そしてこの「事故報告書」を何度も書き直しさせられたことや、私が見た事実を保育園側に信じて貰えなかったことが、やがて私がうつ病で倒れるきっかけとなって行くのです。


-この事故の本質とは何だったのか?


私は事故をこの目で目撃し、報告書を書いた張本人でありながら、父母対応からは一切外されてしまいました。園側にとって不都合なことを言う人間を、事故対応者として父母の前に出す訳には行かなかったのだろうと考えられます。

しかし、私は知っていました。この事故は突然でも偶然でもない、毎日の積み重ねが招いた「必然的な出来事」であったことを。

怪我をした児童はいわゆる発達が緩やかでしたが私たち「普通の保育士」から見れば、幼く見えて可愛いらしい子どもでした。生活の場面で切り替えに時間がかかるのは園全体の共通認識でした。
しかし4歳児の担任にとっては、自分の保育の邪魔をする厄介者としか捉えていなかった様に、当時組んでいた私の目には写っていました。

担任による10のカウントダウンは、日常的に行われていました。もちろん、10数えることが全て悪いとは言えません。子どもの気持ちを次の楽しい活動に向かわせる手段として、用いる保育士も少なくはありません。問題はそれが精神的に子どもを追い詰めてはいないか、子どもの権利を剥奪してはいないか、という点に尽きると思います。

その担任による精神的な圧力はエスカレートしていきます。食べるのが遅ければ泣いてもおかわりをあげない、その子が早く並んでもお気に入りの子を優先する、他にもいわゆる「気になる子」、自分の保育の邪魔になる子を、保育士の私ごと部屋に閉じ込めて後から来させる等、挙げればキリがないほどでした。


-精神的虐待を未然に防ぎたいという思い


私の願いと保護者の願いは一緒でした。とにかくこの担任の間違った行いは、正されなくてはならないということ。

私はこの担任が行っている日常的な精神的虐待を「あなたは虐待をしている」と突き付けずに、何とか止めさせたい。それが子どものためであり、担任のためでもあると思って、先輩であることは忘れて数々の助言をしました。しかし、私のことを小馬鹿にして「僕」などと軽く見ている担任に私の助言など到底響くことはありませんでした。

虐待保育が明るみに出れば、自業自得とはいえ家庭のある先輩の人生も狂ってしまいますし、私の大好きな保育園の名に傷がついてしまう。
それでも私は、その虐待の事実を周囲に発信する必要があったと、今になって感じています。

実はこの時点で、保護者自身も、担任が自分の子に辛くあたっていることを薄々感じていました。
ある日お迎えに行くと、必要以上に怒鳴られている我が子を目撃して、ついに勇気を出して主任の先生にお願いをしたそうです。「うちの子はどうしてあんなに怒られているのですか?」と…

悲しいことに、この保護者はこういう場面に何度も出くわしたことがあるけれど、「何か理由があるはず」と我慢してくださっていたこと。
もっと悲しいことには、藁にもすがる思いで事実を打ち明けた主任の先生から、返答がなにひとつ無かったことでした。

この悲しみが胸にあったからこそ、今回ばかりは「真実を知りたい」と思ったと、後々保護者の方が私に語ってくれたのです。

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