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ゲームはやりたし時間は惜しし

 ボーナスが振り込まれた。事前の通達通り、思っていたよりも少ない。ただ、バイクの頭金には足りているのでこれで払うことにする。毎回ボーナスが入ると、同僚や上司が用途を聞いてくるのが通例で、はっきりと答えたくないためボーナスはないものと思っているので用途はないと答えているのだが、今回も聞いてきたのでそのように返しておいた。良い加減ボーナスの話はしたくないということをわかって欲しい。

 ゲームが好きである。TRPGをやっているのでアナログも好きであるし、steamに積みゲーを積んでいるくらいにはデジタルも好きである。

 幼少期、買い与えられたDSをやりまくった結果、例に漏れず親の怒りを買い、ゲーム機を捨てられたことがある。実際のところ、そのゲーム機は捨てられてなどおらず、両親の部屋のクローゼット奥深くに封印されていた。それに気づいていたので、数年前に実家を出る際に回収した。なので、紆余曲折あったものの、今それらは私の家のベッド下に収納されている。

 さておき、大手を振ってゲームをすることができなくなってしまった当時の私であるが、禁止されればやりたくなるのが人の性である。時は2010年代、ゲーム機が更なる発展を遂げる時期で、周囲の友人が学校でゲームの話などしていると、参加できずに歯痒く思ったものである。思いすぎた結果、なけ無しの小遣いを使って中古のDSと『ドラゴンクエストモンスターズジョーカー2プロフェッショナル』をBOOKOFFで買い、親にバレないようプレイしていた。買った時のやってはいけないことをした気持ちは今でも覚えている。その後タガが外れてPS3とGTA5を買ったりするのだが。

 私の人生にゲームは良くも悪くも関わってきたが、今その関係は崩れつつある。ゲームをする時間がない。やりたいゲームはたくさんあるし、これからも増えていくだろう。しかし、それを遊ぶ時間がない。今、ようやく親の管理下から離れ、時間も周囲の目も気にする必要もない。布団の中でディスプレイの光が漏れないように気をつけながらモンスターを配合する必要などないと言うのに、それを謳歌できないのだ。

 時間もないし、気力もない。多くの人がそうであるように、楽しもうという気持ちはあれど、身体がついてこなくなってしまったというのもある。ディスプレイを長時間見れなくなってしまった。ただでさえ、デスクワークで常日頃からPC画面と睨めっこしている身である。そこにさらにモニターと目を合わせるとなれば、目にかかる負荷はいよいよ看過できないものになってしまう。そういう歳になってしまったのだ。

 だが、最たる理由は、私の認識が変わってしまったというのがあるだろう。かつては、ゲームは楽しむことにこそ意義があり、プレイする時間を尊いものだと思うことができた。しかし今、私にはそう思うことができない。もちろんゲームは楽しい。面白い。しかし、終わった後、その先に続くものがない。かつては、それを話題に友人と話すことができた。しかし、今はそれもできない。遊んで、終わりだ。

 それがとても辛く感じてしまう。そういう考えをするようになってしまった自分が嫌になる。しかし、その考えから脱却できない。楽しむことが全てのゲームに、それだけで意義あるものであるはずのゲームに、何の意味があるんだと異議を唱える自分がいるのだ。それが嫌で仕方がない。

 パソコンに電源をいれて、ゲームを起動しようとすると、必ずそれが頭に浮かぶ。それなら他のことをするべきだと。結局何もせず、そのままベッドに寝転んで寝てしまい、どうせ寝るならゲームをすればよかったじゃないかと後悔する。そんなことばかりである。

 ここから脱却するには、ゲームをするということに何か付加価値をつけなければならない。世間一般でゲームの価値がどうこうという話ではなく、自分を納得させるための理由がいる。私個人の話なのだ。プレイ日記でも書こうか。

 あれだけ好きだったはずのゲームを、好きなだけやれる今、全くやろうとしないのが、どこか悲しく感じてしまう。ゲームを捨てようとした親の願いは、時を経て叶った訳である。楽しい時間を過ごすこと、それだけで価値あることであるはずのゲームに、そうではない価値を求めてしまうようになってしまったことが、どうにも空しいのである。

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