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人生の棚卸し 高校生

-今回は高校3年間の棚卸しをしたい。
中学で2つの学校に行った私だが
高校も2つの学校に行った過去がある。
私は皆が制服を2回しか経験しない所を
4回も違う制服を着れた学生人生だった。笑
今回もポイントを絞って一緒に棚卸しをしよう。


・新しい場所、最悪の恋愛

高校はほぼ島根寄りの農業高校に通う。電車は1時間に1本あるかないかで乗り遅れたら遅刻するようなど田舎だった。
前回も書いたが仲の良いメンバーは1人だけ受かり後は不合格。
その子が居てくれたおかげで不安は無かった。
入学して新しく5人の友達と出会う。今でもたまに会うほど仲良くなった友達だ。
高校生で新しい環境、農業という関係のない事を学ぶのも意外と嫌いではなかったが、1年の途中からは苦い思い出だ。

入学してすぐに気になる人が。2個上の先輩、面倒見が良く笑うと犬のような人だった。長男と末っ子という事もあり波長があった。
3年生グループと関わりが増えた中で知っていくほど好きが増し頑張ったおかげで付き合えるように。
今思い出しても勿体無いくらいイケメンだったが
何が最悪だったかというとDV彼氏だった。

いつかの喧嘩をきっかけに叩かれるように。それで仲直りになっていた。
身長も高く反抗しようにも力ではどうにもできない部分。
暴力を振るわれた後に豹変する優しさ。
幸せと地獄の繰り返し
(振り返ると彼のお父さんがお母さんに暴力を振るっていたといつかの時に話してくれていたのを思い出す。)

当時も誰にも相談出来なかった。
殴られていることが恥ずかしくて出来ないではなく
言うことで恋人に傷をつける、周りから悪く見られてしまう
と、何故か相手をかばっての気持ちが強かった。
私も怖いと思いつつ手放せない依存体質な恋愛を当時はしていた。
今では笑い話だが高1の時は別れることが出来ず、殴られないように
また理想の彼女を演じることに必死だった。

高校から母だけ祖母の家に一緒に住み始めたが彼氏の話は出来なかった。

・中退、家族と久々屋根の下

高2になり、DV彼氏が卒業し福岡に行くことに。
遠距離を続けていたが相手の精神状態もおかしくなっており近くに居なくなってから周りの先輩に相談や協力をしてもらい
少しずつ距離を置き連絡の頻度も無くし別れることにした。

DVのストレスを煙草と友達との時間で解消していた。
だからこそ煙草で停学をよく繰り返しその度に母を悲しませた。

高2の夏休みがあけた時、修学旅行が近づき友達と旅行計画などを立て心を弾ませていた。
当時、遊びに行くなら髪をセットするのは私の役目が多く
この時から人の髪を扱うのが好きだった。
そんな時中学からの友達が恋人の浮気をきっかけに同じ学校の女子と暴力沙汰の喧嘩に。
私は泣きながら友達に相談されていたので喧嘩ではなく話し合いで出来ないのかと提案した。
この友達もよく煙草で停学になっており
このままいくと次は退学になると思った。

友達の答えはNo
私は浮気した女子と1対1で話し合いをし謝ってほしいと伝えた。
殴られてほしいと思ってもないし、起きたことは仕方ない。
後は真剣に謝るしかないと、一緒に行くから謝ろうと言った。
その時は分かった。と伝えてくれた。
でも約束した日にその子は来ず、友達の怒りは爆発した。

結局、友達は暴力を振ってしまい、その子は一方的に殴られるだけで
謝罪はしなかった。

この関与があり友達は一発で退学になり、私も暴力を進めたということで
退学が決定する。
進めてないがその解釈でまとまってしまったことと
学校としてももう置いてはおけないと言われた。
この時初めて父親が萩に来て一緒に謝罪をした。
そして初めて私の前で泣きながら話をした。
今でも鮮明に会話を思い出す。強いと思っていた人がとても小さく見え
守らなきゃと心を入れ替えようと思った瞬間だ。

修学旅行は行けず、友達とも中途半端にさよならを伝えたまま
私はまた下関の家に戻って暮らすことに。
そしてすぐ通信制の学校に編入する。
何一つ親孝行ができず教員の娘としては最悪の結果だと思った。
久々の実家は他人の家のような感覚で家族とはうまく馴染めなかった。

・習慣化、意思を伝える勇気

高3は自分の中で習慣化の経験と自分で決めるを経験した。
通信制の高校に転入してからバイトが出来るようになり
私は小倉駅の近くのコンビニで1年間働いた。
小倉を選んだのは下関より時給が高かったから、それだけ。
このバイトのおかげで早起きや時間を上手く使うことを
習慣に出来るようになった気がする。
最寄駅から2駅先が小倉なんだが最寄りまでは運動がてら歩く。
決まった時間に起き、決まった時間に出る歩くのは20分ほど。
決まった電車に乗り、決まった飲み物を飲む。
ルーティンの出来上がり。これが苦ではなかった。
バイトの日は朝5時起き、週5働いた。
この頃、バドミントンを大人のクラブチームで再会しており
週3~4の頻度で夜はバドミントンに行き、ほぼ毎日ここでも
ランニングを1時間ほどする習慣と継続があった。
痩せたい。もあったがランニングは家に居る時間を短くでき
ストレス発散になっていた。
バドミントンは新しい居場所になって小学生の時とは違う
スポーツとして純粋に楽しめている感覚だ。
運動する日を決め、それ以外をレポートする日、自由な日などスケジュールを組み、食事も食べるものと食べないものも決めていた。
高3くらいから管理することが好きだったようだ。

ここで父親に意思を伝えるきっかけになったのが進路だ。
最初は経済学を学ぶために大学に行くと言っていた。
何故経済学かというと「社長になりたいから」
これが理由だ。笑 指図されたくないからと何とも捻くれた思考。笑
こんな考え方だったからか勉強は全然身に入らず、何か違うと思う。
その時学校生活を思い出し美容師になりたいと思うように。
私には向いてるんじゃないかと期待が膨らむ。
親は最初は反対だった。続けていける人が少ないのも事実だった。
でも諦めきれなかった。どうせお金がかかるなら好きなことを
やりたいと父親に土下座して行かせてほしいと伝えた。
(土下座するぐらいの覚悟があると見せたかった)

その甲斐もあり専門学校を目指し無事に福岡の美容学校に合格。
面接の練習も恥ずかしながら親にお願い出来るように。
父というよりは教師としてではあったが会話が増えるように。
少し距離が縮まっていく感覚に心が温まるものを感じた。
家族、親は本当にすごいなと今も思うがこの時もずっと思っていた。
ただ血が繋がっているだけの人間にここまで無性に愛を
与え続けれるものなんだろうか?と


やっと自分の中で高校までの棚卸しができた。
正直、高校の3年間は本当に濃ゆかった。
親にも祖母にも周りの友達にもたくさん迷惑をかけたし
たくさん救われたり助けてもらうことばっかりだった。
この中では綺麗な言葉でまとまってみえるが私は本当に出来た人間ではなくどちらかというと我儘で嫌ならすぐ逃げるそんな学生だった。

いじめの環境から逃げるために違う生活を選んだが結果として温かい人間関係を教えてもらえたし、良くも悪くも人は周りの環境で変わることも学んだ。
萩の人は温かい、そして一度の繋がりをとても大切にしてくれたからこそ今でも会う関係性ができたと思う。


高校での自己理解
・環境が変わることで人間性も変わった
・家族への表現が上手くできなかった
・人間関係を大切にする志向が強まった
・高校の経験から人との繋がりを意識している
・新しい出会いを受け入れ始めた時期
・自分を理解し表現しようと必死
・親の有難さを実感
・お金を稼ぐことの大変さも知れた
・この時期に出会えた人の繋がりは今も大切


11月15日にコーチングがあったのだが私は特に人の繋がり
人に何かを与えたいという欲求が強いと出た。

この棚卸しをすることで高校生の経験から繋がっているのでは?と
書きながら納得している。

27年間生きた中の18年分が終わった。
長いようであっとゆーまの18年間。
過去は過去で受け入れるだけだ。
後は未来に向けて今を全力で生きるだけ。
たくさんの人のきっかけになりたいという気持ちを
どんな形で表現しようか考えることで毎日ワクワクしている。

いつも記事を読んでくださる方々ありがとうございます。
反応があることも全て励みになっています。
何か感じることや感想などもお待ちしてます。

皆さんの高校の時の最高の瞬間はなんでした?

専門学校から美容師になった時の棚卸しはまたいつかの機会に。
またモチベーションがあげれる発信をしていきます!
では、また次の記事でお会いしましょう。

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