0か100

やるなら0か100だ。

中途半端が一番気持ち悪い。というかダサい。やるなら本気で、身体が悲鳴を上げるまで、精神が朽ち果てるまでやる。

そういう姿勢を美しいと思うようになってしまった。一生懸命は美しい、とは小学校の頃の教師の言葉だが、これは割と気に入っている。

しかし呪いの言葉でもある。反対解釈として、一生懸命でなければ醜い、と読むこともできてしまう。論理的ではないが。

事実として、私は一生懸命でないものを美しくないとは思ってしまう。必要でもないのに手を抜いている人の評価を過度に低く見積もる。外には出さないようにしているが、それこそゴミクズを見るような目で見る。

そんな人には何も期待しない。普段手を抜くのに、どうして必要な場面で十分な成果を挙げられよう。

とはいっても、尊敬するのは常に一生懸命な人ではない。その人が積み上げたものが自然とにじみ出ている人が好きだ。悩み、あがき、それでも自分のものを積み上げた人には独特の雰囲気がある。

精神の発酵とでも言おうか。醸し出された雰囲気、身体から発せられる重さがある。それが軽いやつは嫌いだ。というかどうでもいい。邪魔さえしないでもらえたらいい。

積み重ねるにはどこかで100を出す必要がある。それなりに持続的に。昭和の根性論のようだが、結局、死にそうにならなければ出せないなにかがある。

そして、私はその匂いにどうしようもなく惹かれてしまう。その瀕死に身体が反応してしまう。

あぁ、あなたも死にかけたのですね。その匂い、私は好きですよ。

生易しい環境で生易しい生き方をしているのを見ると反吐が出る。簡単に人に見せる涙なんて汚い。泥水のほうがキレイだ。

心を締め付け、身体がきしみ、それでも前に進む姿こそあはれだ。

とはいえこんな価値観を押し付ける気はない。そんなことをしたら嫌われるか潰れるか無視されるかが関の山だ。

胸の内で抑えておくのが丁度いい。

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