人の幸はクソ

見知らぬ人の幸福な姿に苛立ち始めたら、それは疲れている証拠だ。知っている。知ってはいても苛立つのだから仕方がない。

苛立っているときに思っていることは大抵こうだ。
「こっちはこんなに苦しいのに。」

辛く苦しいときに幸せな姿なんて見せられたら、発狂するか包丁を取るか、唇を噛みながら耐え忍ぶかだ。
理性的であるらしいホモ・サピエンスである私は、もちろん唇を噛んで耐えているわけだが、それはそうとして苛立つ。

なぜあんなに幸せそうなのか。壊してはいけないのか。なぜ。こんなに苦しいのに。苦しいのに。
その幸せを少しくらい壊してもいいだろう。

知っている。こんな八つ当たりは不毛だと。今幸せそうなそいつも、何かしら苦しみを抱えているのだと。

だが、それを知っていたところでどうしろというのだ。この衝動はどこにやればいいのだ。この苦しみはどうすればいいのか。ぶつけてはダメなのか。少なくとも今は幸せなのだから、それをこちらと同次元にまで貶めてもいいではないか。

僕は独りで帰り道を行く。
奴らは連れ立って繁華街へ行く。
僕は食卓に向き合う。
奴らは食卓を囲む。
僕は、独りだ。
奴らは、独りじゃない。

逆に、完全に独りになれば何も思わなくなるのだろうか。人との繫がりという名のしがらみから逃れられれば何も思わないのだろうか。
あるいは、損益が損の方に傾く関係を全て捨て去ればよいのか。
自由であるはずの生で、自由を制限され続けているのは苦しい。

もう、解放されたい。疲れたのだ。苦しいのだ。

そんなときに、幸福な姿など見せるな。
笑い合うな。
触れ合うな。

人の幸はクソだ。

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