皮肉

皮がパリッとして中はジューシーな肉は美味しい。鶏のもも肉を皮付きで焼いたやつとかがそうだろうか。
そうでなくても、春巻きとか、外部と中身の区別があるやつは大概美味しい。

やはり区別が大事なのだろうか。
外と中とは区別しなければならないのか。
しかしそもそも中があれば外がある。あまり意識しなくても良さそうだ。

外見と中身が違うなんてことがある。正確には、「外見を見て私が思っていた中身と、実際に私が感じた中身とが違う」、あるいは「私が感じた中身から想像した外見と、実際に私が見た外見とが違う」ということだ。

前者の例としては、優男(イケメン)がDV野郎だった場合、後者の例としては、マッチングアプリでやり取りしてた好印象の人の見てくれが社会通念上非常によろしくなかった場合を考えれば良い。
後者の例はご愁傷さまというほかない。前者の例は騙されるやつが悪い。これは個人的見解に基づくもので、私怨である。

外見と中身が全く一致していることはあるのだろうか。物ではあるかもしれない。物の「中身」は、箱状のものでない限り、構成物を指すからだ。
見るからに鉄でできた棒の中身が銅でした、なんてことはあるかもしれないが、普通は中身も鉄だろう

では人ではどうか。「中身」と言ったときに通常表すのは性格だ。外見と性格が完全に一致することはありえない。表裏の関係でないから当たり前だ。
ハラグロは外面よりも中身が悪いときをいう。ハラジロはない。外面が悪ければそとそも中身が知られないから。強いて言うなら猫を助けるヤンキー的な何かである。

ちなみにヤンキーは嫌いだ。したいことをやって何だかんだで上手くいくからだ。これは個人的見解に基づくもので、偏見と私怨である。


言葉にも表と裏がある。

例えば、「こんな文章を読んでくれてありがとう!」といったとき、「こんな文章を読む暇があるんだね」や「こんな文章を読んで楽しいんだね」などが含意されていることがある。
もちろん私はそんなことは思っていない。純度百%の感謝である。こんな駄文を読んでくれるなんて心底嬉しいね。

皮肉である。言い訳すればするほど逆になる。中身と外見が離れていく。私はこんなに素直なのに。


皮肉については、中身と外見とを離してもあまり美味しくはなさそうである。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?