車に「乗っている」時間が好きだなぁと
車を運転するのが好きな人、車の助手席に乗りたい人、車のトランク部分に乗ってみたい子供、色々あると思います。
今夜は、後部座席でぼうっとしてて思ったお話です。
本日のご挨拶
こんばんは、雪猫なえです。
今日も今日とて色んなことがありましたが、なんとか元気にやってます。
起きてほしいことについて何にも動きがなくて、起きてほしくないことが塵のように徐々に細々と積もっていくのはなんなんでしょうか。
いや、そんなことはないんですけど。少し悲観的になっているのは夜遅くの仕事で疲れているだけです。大丈夫です。
コンビニで念願のカツ丼を入手しまして、夜仕事に備えた早めの夕食は大成功&大正解でした。美味しかったです。
でも、スーパーのカツ丼の方が好きだったかも、なんて思ったので記憶が美化されていないか近いうちに確かめようと思います(訳:近々スーパーでカツ丼買います)。
だんだん朝起きるのが辛くなってきますね。寒いったらありゃしないです。それでも頑張って活動するのです。何度目かの冬が来ますね(もう来てる地方もある)。
あとは……ルーティーンの確立って難しいですよね。思うように進まない時間です作業です日々です。イレギュラーによって脅かされっぱなしですよ。頑張って抗っています(苦笑)。
それではこの辺で本題に入りましょうか。
夜の後部座席で
久しぶりに車で送迎してもらいました。乗っているだけで目的地に着くことのなんて楽なことでしょうと公共交通機関を使っているときも思います。
特に話す必要もなく、ぼーっとしたりスマホを見たり、あの時間が大好きだと最近再認識しています。
話してもいい
もちろん、友達と一緒にいて、雑談に花が咲いても全然嬉しいんですよ。「邪魔だなぁ」とか「面倒くさいなぁ」なんて思わないです。
でも、何も話さず移動するのも結構好きなので、結論、どうなってても大丈夫です。
罪悪感なく何もしないでいられる時間・空間
雪猫は食事に頼るのは、楽に喜びを享受できるからだと自己分析しているのですが、もう一つ、「何もしていなくても許せるから」という大きな理由があるように思っています。
食べているときって何もしなくても「食事中だから」っていう正当な理由があると思えるんですよね。だから勉強していなくても生産性の高いことをしていなくても、何もしていなくても自分を許せる感覚があります。
運転してもらうこともこの理屈に当てはまるのではないかなと思っています。何もできませんからね、物理的に。
揺れ動く車内、しかも暗い中、できることは限られます。
なので、「仕方ない」で片付けられるんです。
厳密性は関係ない
自分の感覚の問題ですし、言い訳に近いので、本当にできないかどうかは問題ではないんです。
「仕方ない」そう思えることが重要で、現実逃避のいい言い訳です。
視線の先
どこを見てるんでしょうね。結構色々見てます、ぼーっとするわりに。
運転手さんを観察していることもありますし、助手席さんを観察していることもありますし、窓の外の明かりを目に流していることもありますし、前の車のカーナビやナンバープレートを見ることもありますし、風景を見ていることも。はい、様々見ていますね。
基本的に隣の人は見ないかもしれませんね。
一番楽しい(?)のは、やっぱり景色でしょうか(そりゃそうか)。
でも全然道を覚えるとかでもお店を認識するとかでもないんですよ。
見てないんです。ただ流しているだけです。それがいいんですけどね。
終わります
ぼーっとできる場面を増やしていければ、生きるのももっと楽になれそうな気がします。今のところ、スーパーのレジ待ちの時間がダントツピカイチで気を抜ける瞬間です(よく友人に可笑しがられてツッコまれます笑)。
皆さんも、それぞれにぼーっとできる瞬間があるんでしょうか。ちょっと面白そうなアンケートですね。
それでは今日はこの辺で。また。
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