2月の徳目「禅定静寂」(良く考え、落ち着いた暮らしをしよう)(令和2=2020年)

 今月には、「節分」があります。
 当園の節分では、鬼に豆をぶつけません。鬼も子どもたちを脅かしません。
 そもそも、「人か鬼か」「自分か他人か」ということは、絶対的に分けられるものではないのです。
 「鬼はどこにいるか?」と問われれば、「みんなそれぞれの心の中にいる」というのが答です。
 ですから、外に敵役[かたきやく]を想定して、それに豆を投げつけても意味は無いのです。それどころか、鬼役の人に豆をぶつけることに、もし快感でも覚えるようなことがあったら、それこそ自分の中に、「鬼の心」が目覚めることになってしまいます。
 (私の以前の文章:
節分「阿弖流爲・ 母禮[あてるい・もれ]の碑」(平成31=2019年)|白井千彰 (note.com)もお読みください)。

 もう一つ、2月には、「涅槃会[ねはんえ]」もあります。
 ただ、その前に、『子らを思ふ歌』のことを少し述べさせてください。
 最近、テレビの子ども番組『にほんごであそぼ』で、全盲の音楽家 木下航志[きしたこうし]さんがソウル音楽にして弾き歌いした万葉歌人 山上憶良[やまのうえのおくら]『子らを思ふ歌』を聞いて感動したのです。

 「いづくより来たりしものぞ(可愛い子どもは、一体どこから来たものなのだろう)」
 「銀[しろがね]も 金[くがね]も玉も何せむに まされる宝 子にしかめやも(金銀宝石も何だというのだろう。子どもにまさる宝物は無いのだから)」

 人形を制作することはできますが、人間を制作することはできません。
 本当に子どもというのはどこから来たのでしょうか。佛[ほとけ]さまより与えられたとしか考えられません。
 思えば、配偶者も、更には、この性格や肉体を持った自分も、佛さまから一方的に与えられたものなのではないでしょうか。

 子どもも配偶者も自分も、しばしば理想とはかけ離れ、それを実感する時、人は苦しみます。
 お釈迦[しゃか]さまは、「一切皆苦」「四苦八苦」と説かれました。

 一方、亡くなる時には(=涅槃会)
 「甘美な人生だった」
 と語られたそうです。
 みんな、必ずやって来る「その時」に、こういうふうに語れたらどんなに素晴らしいことでしょう。
 「その子の人生が幸せになってほしい」
 保育の原点も、ここにあります。

 自分の心の中の「鬼」を外に追い出すのは、秋に落ち葉を掃くようなものです。掃いてもすぐに次の葉が落ちてきます。でも、掃けば、そのぶん、確実に道はきれいになります。
 良く考え、落ち着いた暮らしの中から、心の「鬼」を退治していきましょう。

  木下航志 『子らを思ふ歌』は、ネット上で見つけられませんでしたが、この歌の作曲者が歌っているものは見つかりました。

 うなりやベベン『子らを思ふ歌 』

 『子らを思ふ歌 』歌詞(原文)と意味(現代語訳)1例
 
 もう一例(いづくより来たりしものぞ、の部分を含む)
 
 もう一例(しろがねも、くがねも玉も、の部分)

(『園だより』令和2=2020年2月号を基に作成)

※ 『にほんごであそぼ』版と全く同じではないですが、
木下航志 『子らを思ふ歌』を、その後、見つけました。
「我が子ほど大切なものはない」 (youtube.com)


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?