星野 源が教えてくれた7つの事:クリストファー・ノーランとの共通点①
「Cube」の星野 源はクリストファー・ノーラン映画の主人公のよう
「ばかのうた」「エピソード」のマリンバやギターをならし、呟くように歌う星野 源(作家論のため敬称を略させてもらいます)が好きだ。
もちろんサウンド的には「YELLOW DANCER」「POP VIRUS」が好きだ。
ただ初期作の歌詞は星野 源自身「暗い、内省的、死の歌が多い」と言っているが、ときどき心が塞いだ時にふっと聞きたくなる。
もう10年以上ずっと聞いている。なぜか?よくわからなかった。
それが「Cube」MVを見て、モノクロで※ドイツ表現主義的なセットと複数のダンサーたちの中で、自由自在に動き回り歌う星野 源を見た時、まるでクリストファー・ノーランの映画の「怒りと絶望の中の」主人公のように見えた。それはドイツ表現主義の核にある「世界に対する怒り」を、アンチ・リアリズムで表現した方法に似ている。
※ドイツ表現主義:第一次世界大戦以前と戦時中、ドイツを中心に流行した反自然主義・反印象主義的傾向が強い芸術。
現実の再現より、心の奥の深い感情や内面を主観的に強調して表現する方法。ナチス・ドイツは「退廃芸術」として弾圧。
映画では「カリガリ博士」(1920)「メトロポリス」(1927)
クリストファー・ノーランと星野 源、どこに共通点が?
あくまで私が勝手に感じたのは「ものづくりの設定や流れ」の共通点だ。
①「世界のシステム」は信用しない。
②「自分のシステム」も「他人のシステム」も信用できない。
だから、自分をなくして「怒りと絶望の迷路」に入り込む。
「自分探し」はしない。
「自分の記憶やアイデンティティ」は、あてにならない。
③「怒りと絶望の迷路」の抜け道(光)を過去、現在、未来、四次元、深層心理を行き来して探す。
④結局「信用できないはずの世界と人間関係」の中に抜け道(光)を見つける。あるいは、既に抜け道を失い、暗黒にいる事に気づく。
クリストファー・ノーランと星野 源にとって「怒りと絶望の迷路」は現実であり、そこからの抜け道=光がノーランは映画であり、星野 源は音楽だと思う。長い前書きでしたが、私が、クリストファー・ノーランと関連付けて星野 源から勝手に学んだ7つの事(前半)です。
1.世界も人間も「ばらばら」がデフォルト(初期設定)「ばらばら」と「くせのうた」(世界も他者も自分も信用しない)
※:()内は、クリストファー・ノーランとの共通点。
「ばらばら」の曲は、星野 源のエッセイ「蘇える変態」で失恋の絶望感から生まれた事を知る。その作詞の制作過程がとても大切なので引用すると
世界は「ばらばら」もとより「ばらばら」人も「ばらばら」そう考えるといろいろな事が仕方ないと思える。ただ半面気楽で自由でもあり、寂しくもある。すると二番で
ひとつになれないけど、重なり合う部分は多い。たとえば音楽、映画、本、もちろん家族も仕事も人生も。
この note を始めてまだ4ヶ月だけど快適なのは、みんなバラバラで時々スキで重なり合って、重なりあったところには、何か本当に大切なモノがあって、それを共有してくれる人がいるのはとてもうれしい。
そして自分も何の気兼ねなくスキなものをスキと言えるのも。でもそれは重くなく、またばらばらでどこかに行く。「ばらばら」が楽しいをこの note で実感した。
「くせのうた」君のくせを知りたいけど「くせは何?」と聞く事がすでに変な人。そもそも「くせを知りたい」と思う事が変?
「くせは何?」と聞く前に、相手は「全部違う人」だと認識する。
主人公の心の中を勝手に想像すると「くせを聞く事で引かれて嫌われるだけでなく、くせに関する嫌な過去、あるいはトラウマが蘇り…何気なく聞いた事、言った事で、相手はとんでもなく傷つく事もある」
でも主人公はそこ(心の傷や謎)こそ共有したいのだと気がつく。だから主人公が「くせを聞く」ラストの歌詞は力強い。「くせのうた」は「ばらばら」の人間が重なりあう深さと強さを信じた歌だと思う。
2.絶望に寄り添い追い払う「スーダラ節」(絶望の迷路に迷い込む)
夜明けの街を散歩しながら、SAKEROCK時代の星野 源の「スーダラ節」を聞いていて、いきなり泣きそうになった。「スーダラ節」は星野 源の曲ではないが、原点のように思える歌。
「スーダラ節」は1961年、今から60年以上前のハナ肇とクレージーキャッツの昭和初期のヒット曲。作詞は青島幸男、単純なコミックソングではなく、そこには社会に対する怒りと絶望の果ての空虚が漂う。
クレージーキャッツは戦後、在日米軍のキャンプ回りをしていたジャズバンドでありコミックバンドだが「戦後の庶民の怒りや絶望」を質の高い音楽とお笑いで吹き飛ばす。星野源が深い共感を持つのがわかる。
そのクレージーキャッツの植木 等が、明るく陽気に歌う「スーダラ節」を星野 源は、つぶやくように歌う。星野 源はこの曲の絶望を空っぽの心で歌う。それがリアルで想像力が膨らみ心に染みる。
星野 源の歌声から、酔いつぶれて最終電車を逃して、駅のホームのベンチでごろ寝するサラリーマンの姿が浮かぶ なにかつぶやいている。
「スイスイ、スーダララッター、スラスラスイスイスイ―」である。
悲しいのに笑える、悲しいから笑う。
星野 源の歌声は、そんな悲しみや絶望に寄り添い、そっと絶望を「歌」で追い払ってくれる。絶望は消えないけど、笑う事で絶望から距離を置ける。
下の動画は「スーダラ節」を孤高のパンクバンドeastern youthの普段、叫ぶように歌う吉野 寿が笑顔で歌い、星野 源はさらりと歌う。絶望が怒りを通り越して、空虚の果てで歌われる。パンクの先のパンク。
3.時空も次元も超えて歌う「老夫婦」「茶碗」「グー」「ステップ」(時空も次元も超える)
星野 源の歌は時空を超える歌が多い。その通過点に「死」がある。だからたくさんの「死」が出てくるが果たしてそれは「暗い」歌だろうか?
おばあさんが亡くなり、一人暮らしになったおじいさんが、ボケたふりして、二人の思い出の場所に行くだけの話「老夫婦」
それだけの詩なのに、星野 源の歌声で、おじいさんの孤独と、どんなにおばあさんを愛していたのかが伝わる。
おじいさんはきっとおばあさんとの、楽しかった日、悲しかった日、それ以上何も歌わないけど、おじいさんの歩いて見える風景とおじいさんの心の中の風景が重なる。二つのレイヤー(階層)で心の中のおばあさんは、娘になったり、花嫁になったり、母になったり、祖母になったり…
星野 源が歌の最後で「ららららら」と歌う。
最初ギターとキーボードだけだった曲が、ベース、ドラム、マリンバ、複数の楽器のレイヤー(階層)と意味のない「ららららら」で重なり、音楽のピークと聴き手の想像力のピークが重なる。
歌詞の意味から離れ、様々な時間軸での大切な二人の時間が湧き上がり、泣きそうになる。
「ばかのうた」の中に、老夫婦の歌は他にもある。
「茶碗」は夫婦茶碗の話、夫婦茶碗を買った新婚時代、20年後と50年後の夫婦の日常が淡々と歌われる。3つの時間を旅するラブソング。
気になるのは50年後、頭が禿げ、二人河童(星野 源の表現)になり、おばあさんの髪を梳かしている。
髪を梳かしている二人しかいない部屋で「あの笑顔が浮かぶ」の笑顔は、50年前の笑顔。たった一行で、現在と50年前を重ね、ハンド・クラップのレイヤー(階層)も加わり、老夫婦を祝福する。
同じアルバムにの中の「グー」は、どんなメイクや着飾った君より「寝た後の顔」がいいと歌う。「わかる」と共感する。
若い恋人同士のラブソングかと思いきや、いつのまにか主人公は西日差す居間でしわのある口をあけ、昼寝をしているおばあさんを見て「昼寝のよだれ」がいいと歌う。ここで凡人の「それはない」と思ってしまう。で気づく。星野 源は聴き手に「共感」より「深い何か」を伝えようとしている。
2番では白いカーテンの病室にいて、隣のイスで寝起きのおばあさん。
3番では、再び見慣れた天井の下の二人は布団の中。歌詞は
「寝起きの顔はたぶん見えない」の一行がなければ「死」の歌だとは思わない。ただ曲も星野 源も歌声もどこか明るい。
星野 源の「死」にまつわる歌はけっして「暗く」ない。むしろ「死」にまつわる「暗さ」に対抗する大切な「記憶」を「音楽」で光を当て、明るく照らし続けようとする。
「エピソード」には「ステップ」という曲があり、愛する人のお墓参りが、まるで楽しいピクニックのように描かれる、そして
一番の歌詞に出てくる「砂利のステップ」はお墓へ続く砂利の道だが、
この「二人ステップ」は二人がダンスステップを踏んで踊っているように思える。「YELLOW DANCER」につながるような…。
「世界はいらないな」この世もあの世もない世界、三次元でも四次元でもない世界。最後の「待ち合わせはここで」という歌詞も愛する人を別の世界から呼び出してダンスに誘っているように思う。
星野 源の歌は自由自在に時間も次元を超え愛を語る。むしろ能天気といっていいほど明るい。
4.真摯な変態の視点で日常を見つめる「くだらないの中に」(日常世界の愛情に抜け道をみつける)
この「エピソード」の「くだらないの中に」では、確信犯的にくだらなさの中にある大切なモノ(変態ウィルス)を世の中にばらまきはじめる。
星野源のエッセイ「働く男」でこの曲が彼自身の言葉で説明されている
「真摯な変態」って何?同じ星野 源のエッセイ「働く男」の「♪適当に歌ってみよう!」では、わざわざ直筆のアドバスが書き込まれている。
星野 源は、よほど「変態」という言葉が大切みたいなので改めて意味をweblio辞書で調べると
星野 源自身はエッセイ等、(2)の異常な性的嗜好の意味で使っているようにみせかけて、真摯な変態は(2)も含みつつ(3)の一般的な感覚からかけ離れた趣向・方向性の意味だと思う(4)は海外の話なのでなし。
今まで取り上げた曲と歌詞の構成と同じように、彼の作詞術も「ばかのうた」「エピソード」では、複数のレイヤー(階層)を重ねながら多用に変化し盛り上がっていく。
だから「変態」の言葉一つにしても、一つの意味ではなく、あらゆる意味が複雑に混じり合っている。歌詞の一部から
一つの解釈として「くだらない日常は、くだらなくはない。きっと大切なモノ、面白いモノが必ずあるはず(一般の感覚から離れた方向性)」
すると恋人の首筋に「パンの匂い」を発見(一般の感覚から離れた趣向)「すごい、すごい」と讃え合う。
性的嗜好と思われると変態だけど「くだらない」のに「面白い」「笑える」を発見すると一般の感覚から離れた趣向の変態で、最後に「首筋の匂い」を「珠玉のラブソングに変える」(1)の変態
(1)の意味の形状、状態、生態が変わる変態。星野源の「変態」は奥が深くておそろしい。
ただこんなことを論理的に考えていたわけではなく、お風呂でシャワーを浴びていると詩も曲も同時に降りてきたらしい。「天才だ、天才に違ない」と思うと、同じエッセイ「働く男」に
才能のない(私も含め)大部分の表現者に力を与える言葉を言ってくれる。星野 源はわからない、わからないけどかっこいい。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?