40年後に理解、マイケル・ジャクソンMV「スリラー 」の深いテーマ
はじめに
※「メタモルフォーゼ」(変身、変容、変質)の視点で見るとマイケル・ジャクソンのMV「スリラー」(ロング・バージョン)の面白さが、40年後にやっと理解できた。
今まで面白い事はわかるが、2009年に「文化的・歴史的・審美的」に重要な作品としてアメリカ国立フィルム登録簿に収録されアメリカ議会図書館でフィルムが永久保存されたり、2017年には3D化され、音楽を最新のサラウンドにリマスターし、ヴェネチア国際映画祭でプレミアム上映されたりと、正直そこまでの価値がよくわからなかった。
※メタモルフォーゼ(変身・変容・変質)は、現実の概念を超えた実在感を、※異化効果で体感させ、人間そのもの見え方や感じ方を、深く広げる表現だと思う。
※異化効果:日常の概念にとらわれ習慣化し自動化(感情や感性の働かない状態)したものの見方を、見慣れない異様なものとして表現し、観客や読者の様々な感性・感覚にショックを与え、活性化する効果。
例)夏目漱石「吾輩は猫である」:読者は猫に変身して人間の生活を見る。「トイストーリー」:観客は玩具に変身して玩具と人間の生活を体験する。
「歌舞伎の女形」:観客は男性が変身した女性に、深い実在感を感じる。
そこでまずMV「スリラー」監督ジョン・ランディスの映画とマイケル・ジャクソンのつながりを感じる「ブルースブラザース」「狼男アメリカン」について考えてみる。
「ブルース・ブラザース」(1980) 監督・脚本:ジョン・ランディス:黒人音楽を体感する映画
「ブルース・ブラザース」を変身という観点で見てみると、白人である二人(ジョン・ベルーシとダン・エイクロイド)が、黒人音楽(ブルース、ゴスペル、ファンク、ソウル、R&B、ジャズ)のレジェンド(ジェームス・ブラウン、アレサ・フランクリン、レイ・チャールズ、ジョン・リー・フッカー、キャブ・キャロウェイ等)に出会い、大事なモノを守るために、消費社会を破壊し、権威に盾をつき、白人と黒人が仲間になり、ブルース・ブラザース(黒い帽子、黒いサングラス、黒いネクタイ、黒いスーツ、黒い靴)に変身する映画であるように思う。
同時に観客も、アメリカの深南部で生まれたジャズやブルースなどの黒人音楽を、主人公と共に体感し、同じ思いを共有する仲間として、ひととき、変身する映画だと思う。
「狼男アメリカン」(1981)監督・脚本:ジョン・ランディス:狼男とゾンビの意味
マイケル・ジャクソンはこの映画を観て、直接ジョン・ランディスにコンタクトを取り、通常の10倍での予算で「スリラー」のMVを制作する事を決めている。「狼男アメリカン」は、特殊メイクのリック・ベイカー(「スリラー」も担当)のリアルすぎる狼男の変身シーンが話題になり、そこの印象が強く、単なるホラーコメディとして紹介される事が多い。しかし、中身はコメディというより、シリアスな悲劇で深いテーマが表現されている。
イギリスにヒッチハイク旅行にでかけたデイヴィッドとジャックが、満月の夜、巨大な獣に襲われ、ジャックは死亡。
その後、デイヴィッドは、全裸で森の中を走り、鹿の肉を食べる悪夢を見るようになり、病室に死んだはずのジャック(腐敗中のゾンビ)が現れ「俺は死んだが、狼男の呪いで魂がうろついている。呪いを解くために最後の狼男を殺さねばならいない。それは君だ。手遅れ(狼男)になる前に自殺しろ」と話す。
ユダヤ系アメリカ人のデイヴィッドは、ナチスドイツの軍服を着たモンスターに家族が次々に殺されるという悪夢にも苦しむ。
やがて、ディヴィッドへの呪いは実現し、獰猛な狼男になり、街に出て、カップルや浮浪者、地下鉄で電車を待つ男など次々と人々を襲い、彼らの魂も浮かばれず、ゾンビになりデイヴィッドの前に現れる…。
悲劇が呪いと復讐を生み、暴力が暴力を生み際限なく悲劇が繰り返される。本能で生きていた狼に、本能だけでは満足できない人間の脳が足された結果起きる獣人(狼男)の悲劇。
単なるB級ホラーコメディと見られていた映画は、過去の歴史や呪い、人間が抱える業のような苦悩と暴力性をゾンビと狼男に変身する主人公達を通して描いている事がわかる。
アフリカ系アメリカ人のマイケルは、MV「スリラー」で差別と偏見に晒される自分と自身の心の奥の感情を「狼男アフリカン 」として表現したかったのではないか?
1982年当時、MTVは、比較的裕福な白人ロック専門放送局として「黒人が出演するビデオは放送しない」という差別的方針があり、アルバム「スリラー」のセカンド・シングル「ビリー・ジーン」は大ヒットしているにも拘らず「ロックじゃないから」という理由で放送を拒否。
これにマイケルの所属するCBSレコードが激しく抗議「マイケルの新作ビデオをオンエアしないなら、同社全アーティストのビデオを提供しない」とビジネスを超えた提案で、MTVの人種問題が露呈し放送を勝ち取っている。
そのアルバムから7枚目のシングルが「スリラー」。差別、偏見、悲劇、暴力の連鎖と呪い、浮かばれない魂のゾンビたち…。
通常のMVの10倍の予算をかけて、マイケルは自分の音楽とダンスを体感させ、ジョン・ランディス監督の映画で、自分の音楽の魂(ソウル)を表現したかったのではないか、と思う。
マイケル・ジャクソン 「スリラー」(1983)(14分)監督・脚本:ジョン・ランディス 出演・脚本:マイケル・ジャクソン
1.なぜ、マイケルは狼男に変身したのか?
デート中、マイケルと彼女(オーラ・レイ)と二人だけの秘密として「僕は他の人と違う」と言う。彼女は「だから好き」とか言っているが、そんなことは関係なく、雲の影から月が出て、マイケルは突然、狼男に変身する。
マイケルの顔が大きく崩れ、顔の輪郭が変わり、目が落ちくぼみ、牙がむき出しになり、手のひらの肉球が膨らみ、鋭い爪が伸び、耳が尖り始めると見てはいけないモノを見ているような気になる。
スーパースターの顔が目の前で崩れ、暴力と性衝動を象徴する狼男になって愛する女性を襲う。この場面のマイケルの変身への苦悩、その後の豹変、暴力性と俊敏な動きは怖い。
彼女が逃げたかと思うと、唐突にマイケル狼男は目の前に現れ、彼女は倒れ、絶対絶命に追い詰められる。
マイケルは明らかに「狼男アメリカン」の呪われたユダヤ系アメリカ人のデイヴィッドと自分をリンクさせたのだと思う。呪われた(マイケル自身は「神の試練を与えられた」と考えているだろうが)アフリカ系アメリカ人として…。
1979年、マイケルはステージの床に鼻をぶつけ骨折してから整形手術をし、手術の不具合から呼吸困難になり再手術。この時期、既に自分の外見が失われる不安と恐怖に襲われている。
暴力においても、マイケルと兄弟たちはジャクソン5のマネージャーでもあった父親のジョー・ジャクソンに思春期の頃、虐待を受けていた。自分の血の中に流れる衝動性と暴力性を多感な時期、目の当たりにしていた。
1983年、マイケルの要請で父親ジョー・ジャクソンはジャクソン5のマネージャーをを解雇されている。
その後も、マイケル・ジャクソンが呪われていた(「神の試練を与えられていた」)かのように不幸な出来事は続き、1984年にはCM撮影中、頭部に火傷を負い、再び顔の整形手術。誰もが綺麗になるための整形手術だと思っていたものは、全て、不運な事故とその後の不調のための再手術が原因だった。
更に1986年、尋常性白斑(皮膚の色素メラニン細胞の損失を引き起こす皮膚疾患)のため年を経るほど、肌は白くなり1993年に病気の事を自ら告白するまで多くの人に「整形してまで白くなりたいのか?」と誤解され続けた。
2.マイケル「スリラー」の歌詞の大部分はホラー映画の事
MV「スリラー」に戻ると、狼男の場面は、二人が見ていた映画の中での事で、客席で映画を観ているマイケルと彼女が描かれる。怖がる彼女の横で、マイケルは下品にポップコーンを食べ、にやついている。少し怖い。
マイケルの育ったモータウンでは白人社会に順応するために徹底的にマナー教育される。だから映画館での下品な食べ方はマイケルの演技。
映画館の前で「スリラー」の曲が始まり、霧の深い帰り道、マイケルは、ふざけて彼女を脅すように「スリラー」の曲に合わせて歌い踊り始める。
いつもよりリラックスして、彼女のためだけに陽気に踊る。マイケルは、彼女に恐怖と警告を与えているつもりだが、楽曲を貫くベースラインやダンスが視聴者に安心感をもたらし、彼女も幸せそうに笑っている。
この場面のホラー話は、二人が見ていたホラー映画の事なので怖くない。
「スリラー」の本当の恐怖はこの後、始まる。
3.4万年前からの人類の苦悩と救済の音楽とダンス
二人は、月の灯りに照らされた霧の深い墓地へとやってくる。
二人が墓地を通り過ぎると、ヴィンセント・プライス(怪奇俳優「ハエ男の恐怖」「シザー・ハンズ」など)の独特の語りが始まる。
ここから「スリラー」は、丁寧な実感(リアリティ)を伴なった描写を積み重ね、世界全体が※メタモルフォーゼ(変容・変質)する※異化効果が、発揮される。
柔らかい土の中から骸骨になったゾンビの上半身が、別の墓からミイラ化して顔が残るゾンビが、重い石棺から細い指を持つ手が現れ、長い髪が残る女性の骸骨頭のゾンビが、廃屋の扉を開け服を着たままのゾンビが、次々と現れる。
様々な腐敗段階の違いがメイク、衣装、動きで多用に表現されていて、単に化け物としてのゾンビではなく、個性のある人間のゾンビが丁寧に作られている。特殊メイクの巨匠:リック・ベイカー(「狼男アメリカン」「エド・ウッド」など)の力が、この異様な世界をリアルに実感させる。
やがて街の通りに出てマンホールから手が伸びて街に潜むゾンビも蘇る。
気になる「語り」の単語がある。「the soul」「getting down」「The funk of forty thousand years」
それぞれの意味を調べると、多くの意味が当てはまり、私は素人だが、しみじみ和訳の困難さを思い知る。ただこの曲の場合、多くの多義的な意味を理解した方が、作詞のロッド・テンパートンやマイケル・ジャクソンの意図に近い気がするので、あげてみた。
「getting down」は「降りる、ひざまずく、落ち込む、本気になる、気合を入れてやる」相反する意味がある複雑な言葉、スラングでは「ダンスをする」
「soul」は「霊魂、魂、心の奥の感情、精神の深み、黒人の言語、文化、宗教の本質的な部分」と音楽のジャンルの「ソウル・ミュージック」
ソウルといえば、オーティス・レディング、アレサ・フランクリンなど。もちろんマイケル・ジャクソンも。
「The funk of forty thousand years(4万年分のファンク)」
「funk」には「体臭、悪臭、泥臭さ、田舎臭さ、役立たず、憂鬱、落ち込み、しり込み」これも音楽のジャンルの「ファンク・ミュージック」。
ファンクの帝王といえばジェームス・ブラウン。
しかも4万年前と言えば、旧石器時代、ホモ・サピエンスが、アフリカを出て、世界中に出現した時代では?その事を考えて「4万年分のファンク」の意味を想像すると、たとえばホモ・サピエンスがアフリカで生まれ、世界中に出現し、その土地で様々な生きる苦しみ(差別、偏見、不条理な暴力)を味わい、4万年分の憂鬱、落ち込み、役立たずの体臭、悪臭、田舎臭さ、泥臭さに包まれ、ソウルを失い、腐っていくゾンビ集団の4万年分のひどい悪臭…、想像を絶する悪臭だ。
マイケル・ジャクソンの楽曲だけでなく、エルマー・バースタイン(映画「十戒」「大脱走」「ゴースト・バスターズ」など)の音楽も加わり臨場感が増す。墓から蘇ったゾンビは街の大きな通りに際限もなくあふれる。
そんな異様な世界に能天気な笑顔でマイケルと彼女は現れ、一瞬で表情は凍る。徐々に二人は多くのゾンビ達に取り囲まれ突如語りも音楽も消える。
ゾンビの唸り声だけが響き、ゾンビの接近に合わせ、不気味な音楽が二人を包み、一人一人のゾンビが実在感を持って迫ってくる。
彼女のアップになった瞬間、突然、マイケルは頬がこけ、目の周りは落ちくぼみ、目玉が今にも落ちそうなゾンビになっている。
彼女を守るはずのマイケルが、ゾンビに変身している場面は見る者にショックを与える。マイケル・ジャクソンも差別、偏見、暴力の中で魂を失ったゾンビの一員だった。あろうことか、マイケルゾンビは、街のゾンビたちの中心になり、ダンスを踊り始める。
肉体がボロボロで、腐敗が進んでいるはずなのに、音楽と魂(ソウル)だけは不滅だと言わんばかりに、整然とダンスを始める。
まるで公園に集まった老人たちが、最先端のインストラクターの指導の下、キレのいいラジオ体操を、全力で踊っているような奇妙で不気味なダンス。途中、相撲取りがリズムに合わせて四股(しこ)を踏む、大地に感謝するようなステップや、月の浮かぶ夜空に感謝するような手を上げた振りが入り、古代の人間たちの大地と空を称える踊りのようにも見える。
ここでもゾンビ個人個人のアップが入り、ゾンビという概念ではなく、一人一人の浮かばれない人生を過ごした魂、弱くて不器用でうまく生きる事ができず死んでからも成仏できない人間のように感じられる。
やがてスリラーのサビが始まった瞬間、マイケルは普通の人間のマイケル・ジャクソンに戻る。同時に、ゾンビたちのダンスもキレキレのダンスに変化し、私はこのゾンビダンスに生き生きとした生の喜びを感じる。
ここに従来のダンスを変身させた、異化効果があると思う。
ここで私は気づく。マイケルは自らゾンビになって、彼らの苦しみを理解し4万年前からの成仏できない、浮かばれない魂を持つゾンビを覚醒させ…?と思いきや、再びマイケルは、簡単にゾンビに戻ってしまう。ゾンビ集団は近くの廃屋に逃げ込む彼女を襲う。
4万年前からゾンビに堕ちた人類の魂はそう簡単に救えない。
私たちも簡単には、日々生きる憂鬱を吹き飛ばせない。
マイケル・ジャクソンは予定調和の物語も、ヒーローも信じない。信じられるのは魂のこもった本気のパフォーマンス。窓ガラスは割られ、複数のゾンビの腕が窓を突き破る。床下から、窓から、複数のゾンビが家を破壊し、現れ、最後に扉を壊し現れたのはマイケルゾンビ。彼らは徐々に迫ってきて、彼女の肩に手をかけた瞬間、ゾンビ世界は、現実世界に変化する。
現実世界が変容してゾンビ世界、そのゾンビ世界が変身した現実世界。
これは神話や伝承の時代から続く「(異世界に)行って帰る」物語。
臨床心理学の河合隼雄の言う「ファンタジーは心の中の現実」だから、全ての人間の心の中に獣性と暴力性を抱えた狼男も、魂(ソウル)を亡くし人間を襲うゾンビもいる。もちろん私たちの住む現実の世界にも狼男もゾンビもいる…。外の世界と心の中の世界はつながり、その両方に潜む殺人鬼たちと闘うのは自分自身、自分自身でソウルを失わず本気で生きるしかない。
と現実世界に対する見方や感じ方が深く広くなっている事に気づく。
そんな私たちが不安と恐怖に襲われる時、マイケル・ジャクソンの魂のこもった音楽と全力のダンスは、いつでも、私たちの虚ろな魂を生き生きと覚醒させ、救ってくれる。
マイケル・ジャクソン自身もそんな不安と恐怖に襲われ、日々、我々の想像以上の過酷な戦いを、一人で闘っていたのだ。
40年も経って、やっと私はマイケル・ジャクソンの本質的な偉大さと「スリラー 」の深い意味を知った。
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