2024/04/27 テヘヘなポイント

いよいよ独身生活が現実味を帯びてきた。
精神的な病+メンタル的に来るであろう不調はある。
今日だって先方からの連絡が来た時点でメンタルがひどく落ち込んだ。
両親にはそんな素振りも見せずに狸寝入りを決め込んだ挙げ句、
散歩に行ってくると言った時点で「話がある。」と言われて
20分くらい正座して事の顛末を聞いていた。
そう、私は現在婚姻状態にありながら別居している。

本来ならこんな大真面目なネタをぶっこむ前にいくらかクッションを設けているのだが、
いかんせん自分のメンタルを重視した。
狸寝入りしようと思ったら母親に起こされるし、
父親からは「娘がいなくなるのが残念だ。」と言われたが、
正味な話、家族間の親交は無いに等しい。
あんまり詳細なことを書くと身バレしそうなところもあるので
小さくまとめておくが。

よく、自分の周りは良い人ばかりなので「お前にはあの人はもったいない」
だとか、逆のことも言われることも多い。
しかし、その状態をより良い方向に進ませるためなのに争ってしまう…
そんなのって悲しすぎますよ!(byバナージ・リンクス)的な感じ。
本当、人のエゴというのはとどまることを知らない。
もちろん自分だってエゴはある。
人と人とのエゴがわかり会えない部分で対立が生まれる。
それが噛み合っていたらいいが、噛み合っていない場合は地獄が待っている。
俗に言うApocalypse Now!である。

親には「いい時期も合ったから、それに押されちゃったんだね」
と言われるが、逆説的に言うと個人的には「良い体験をさせてもらった」
に尽きる。
自分自身では体験できなかったこと、与えたいと思って行動したこと、
そのすべてをひっくるめての別居(もしくは離婚)になるわけだ。
その先を考えるだけで辛い。正直親の前でも少し泣きそうになったが、
それは漢、ぐっとこらえて平常心を保つ努力はした。
ラジオのポッドキャストを聞いて気を紛らわせていた際に
母親からは「大丈夫かい?」と聞かれたが、「大丈夫。
ラジオでこんな事があってさ…」と言葉を紡ぐしか無い。
しかし実際問題、心の芯まで落ち込んでいるかといえばあんまりそうでもない。
人生は続くのだ。死なない限り。
何度も死ねば楽になるのか、病院送りに慣れば楽になれるのかと考えることは何度もあった。
しかし自分自身の生存本能のような「生きていればきっといいこともあるさ」
というある意味楽観的な呪いのようなものが自分自身を支えている。
前の日記にも書いたようにやりたいことは山のようにある。

自分の友人が、とあるきっかけで「人生は死ぬまでの暇つぶし」と
言い始めた。
その言葉を聞いた時に、自分自身のやりたいこととか、
成し得たいことがバーっと頭の中に浮かんだ。
当人いわく、「子供ができてそれを育てるのも暇つぶしにはなる」
ということらしいが、人間らしい感情を以て人間一人を育て上げる
と考えると暇つぶしという言葉のなんと軽いことかと思ってしまった。
これが現代に生きる人間の価値観の一つである、ということはわかるつもりでいても
自分自身が中途半端な人生を送ってきている中で、
それ以上の志を持たない人間を量産したところで未来には何があるというのだろう。
そう思うと悲しくなって、自分の中ではその言葉はあまり具合の良いものではなくなったが、
それでは今まで自分が成し得られなかった事を考えると
量産される娯楽を生産する一つの歯車でしか無い。
自分自身が考えていることはその歯車を設計する人物や、それに近しい
志を持った人間になりたい、ということだったのだが、
単純に子孫繁栄(自分のDNAを受け継ぐものがいていいのか?という自問自答にもなるが)
を考えた時に、それは人間本来が持っている本能と対決をするということでもあるとわかる。
そのマイナスな感情の動きで言うと、昨今の若い人たちが個のために
割り切って仕事をするスタンスもボンッやりと見えてくることができる。
これが見えない限り1ステップずつしかものを考えられない人たちにとっては苦痛でしか無いと思うが、
(かくいう自分もそうだが)ではどこで人間はお互いのエゴから抜け出せるのだろうか。

ニュースを見ていると毎日変わらない、暗いニュースばかりが世論を覆っている。
しかしその中に光明を見いだせる人も幾ばくか居られるのであろう。
自分は平々凡々な社会のコマとして配られるように育て上げられた、
一つの部品でしか無い(The Pillowsの歌詞から抜粋)のだが、
ダグザさんのように、歯車にも生まれるのだな…という例もあるものだと思う。
漫然と生きているよりも自分の心で生きていきたい、
でもその心を捨てたのは自分だから、まずはそれをかき集めるための禊が必要なのだと最近思う。

酒の勢いに任せて書いていたら意外と(?)まともに落ち着いたかな?
ただ漫然と暮らしを押下している人はそれで満足なのかもしれないが、
人々に少し聞きたいのは、バナージの「わからないからって、哀しいことが多すぎるからって、感じる心を、止めてしまっては駄目なんだ」という言葉。
これ、実感する人いるのだろうか。私は心にしみるほどわかる。
感じる心を1度失った人間としてこのセリフは染みる。
人間らしいものの考えとは?それは生活環境や時代によっても大きく変わる。
しかし、それでも、自分が思ったエゴを他人とすり合わせることは大切だとおもう。
ということはやはり対話が必要なんだろうな、なんて思う。

せっかく始まったGW、(自分には関係ないが。)
たまには大切な人とエゴとエゴのぶつけ合いを戯れにしてみるのもどうでしょうか。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?