【ルーザー=デッド・スワロゥ】 第2話
「きゃぁっ!?」
目の前の茂みにダイブするよう、キリは倒れた。
バシャーンッツ!!
派手な音と共に、キリは水中に飲み込まれる。前方に横たわっていた湖に、落ちたからだ。
……く、苦しいっ! 息がっ! 助けてっ、誰か助けてっ! ……おとう、さん。……おかあ、さん。
剣が、槍が、容赦なく振るわれる。結婚式のために酒場に集っていた村人たちを、【黒竜帝国】の兵士たちはなんの躊躇もなく殺していく。大人も子供も男も女も。
皆、悲鳴を上げて逃げ惑った。中には跪き、泣いて命乞いをする人もいた。
だけれども、兵士たちがそれを聞くことはなかった。
最早、虐殺だ。
「キリ、逃げろ! お前だけは、逃げて!」
キリを抱いて逃げるロナーは、血だらけになっていた。斬られたのか、右の耳が半分、千切れてしまっている。
仲良しだったモルとラロ、鍛冶師のアジス爺ちゃん、パン屋のメヒコおばちゃん、牛飼いのミディーおじちゃん、ラドゥさんとドゥーラさん――村の優しい人たちは皆、血だらけになって倒れて動かなくなっていた。
「がっ!」
「ロナー!?」
キリを庇って背中を深々と斬られたロナーの口から、血がどぼどぼ溢れ出る。
「ロナーっ!!」
「これくらい大丈夫だ。親父の拳骨の方がずっと痛いよ」
ロナーは優しく笑った。そして、キリの手になにかを押し付ける。
「キリ、逃げて、生きて、俺の分も、お願い、みんなの分も……」
そこから先は、覚えていない。
……鍛冶師のアジス爺ちゃんは腕のいい鍛冶師で、みんなの農具を作ったり直したりしてくれました。パン屋のメヒコおばちゃんは、毎日早く起きてみんなのパンを焼いてくれました。ドゥーラさんは隣の家の素敵なおねえちゃんで、わたしが小さい頃、遊んでくれたり抱っこしてくれました。菓子職人を目指して、いつも頑張っていました。ラドゥさんはそんなドゥーラさんを好きになって、お嫁さんになってほしいってみんなの前でプロポーズした素敵なおにいさんで……。牛飼いのミディーおじちゃんは牛のお産を見せてくれてくれました、みんなに命の尊さを教えてくれました。
……ロロ、モル、ラロ……それに、ロナー。ひどいよ……こんなきれいな石でできたペンダントなんか、いらないのに。……みんなと一緒なら、わたしはそれだけで……よかったのに。
……そんなすてきなみんなが、なんで……亜人ってだけで、魔王の軍勢に加担したってだけで、【転生者】が勝っただけで、こんな残酷に殺されなきゃいけないの? わたしたちは、誰にも迷惑をかけず、静かに暮らしていたよ。なのに、ひどいよ……!
湖の底に、意識の底の闇に、キリは沈んでいく。
……助けて……誰か、怖いよ! ……死にたくない……!
故に、キリは気付かなかった。
ペンダントが、青く強い光を放つ。
その光に向かって、湖底から近づくシルエットがあった。
それは手を伸ばし、キリを掴む。
抱き止め、水面に一直線に向かう。
光の中、彼という存在は大きく変わろうとしていた。死に瀕していたもとの身体は既にほどけ、消滅してしまっている。
残ったのは、魂だけ。
不思議なことに、違和感も不安もなかった。繭のように彼を包む光が優しく、濁りなかったせいかもしれない。
とくん。
温かい鼓動を感じる。
彼の魂、むき出しになったありのままの感覚に、それはじんわりと広がっていく。熱い力が内側から湧き立ち、やがて奔流となって駆け巡る。
新たな身体が編み上がるまで、彼は生命の心地よさに存分に浸った。
――夢を、見る。
「貴様、何者だ!?」
そう問うた相手を、青年の彼は容赦なく斬った。
答えなかったのではない。答えたくても、答えられないだけだ。
そもそも、彼には名がなかった。
――或いは、遠い過去を思い出す。
櫛が通される都度、美しく長い髪はつやつやと黒く輝いた。
まだ幼い彼が背後から見ていることに気づいたのだろう、母が振り向く。
次の瞬間、その手にあった櫛は彼の額にぶち当たっていた。
「去ね!」
転びバテレンに戯れに孕まされ、望まず産み落とした我が子に、母は名を授けなかった。
故に、彼には名がなかった。
――記憶と精神が、構成されていく。
独りになった少年の彼が狩り場としたのは、決まって戦場跡の周辺だった。行き場のない彼は、落武者や合戦への復讐に燃える農民たちを殺し、食う糧を奪って生きるしかなかったのだ。
出会いを果たしたのは、関ヶ原。日ノ本の国史上最大にして最後の大戦の地。西の勢力に付いたと思われる一人の武将の亡骸の下に、一振りの刀があった。
以降、彼はその刀を生涯の得物とすることになる。
村正、と。刀には、東の勢力が忌み嫌うという名があった。
だけれども、彼には名がなかった。
――そして、自分という存在を思い出す。
切っ掛けは忘れたが、青年の彼はさる流派の腕の立つ剣士を斬った。
以降、彼は闘争と決闘を繰り返し、名声と悪名を上げていくことになる。
あの凄腕の剣士との決闘に敗れ、終焉を迎える、その時まで。
ぼんやりと、目を開く。取り巻くのは、真っ暗な闇だけ。
妙な浮遊感に包まれているのに気づく。それは重く、冷たい。
ということは――ここは、水の中なのだろうか?
その時、青い光が爆発する。
瞬間、彼は意識を覚醒させる。
松明を手にした兵士たちが、湖の周辺を走り回っていた。太陽は、もうとっくに沈んでいる。亜人の少女が落ちて、かなりの時間が経過していた。
「頼むから死んでいてくれよ」
ハインツは毒づく。逃げる背中に向けて、スリングを投げた兵士である。
あの後、散々だった。仲間たちから「獲物を水ん中に落としちまいやがって!」と罵声を浴びせられたのだから。
苛立つが故、気付けなかったのだ。ハインツだけではない。その場の兵士たち、全員。
風が吹いてもいないのに、湖にさざ波が起こっていた。
唐突に、轟音! 湖から、水柱が、ド派手に噴き上がる!
兵士たちは全員、仰天した。水柱にではなく、水柱を上げた存在に対して。
「貴様、何者だ!?」
対し、そいつは――
『何者かって?』
【騎士】としてこの世界に降り立った彼は、赤みがかった黄金色の眼を人喰い虎みたく炯々と輝かせ、口端を歪めてひどく楽しそうに笑った。
『俺は、剣士だよ。【名無し】のな』
語り継がれる法則によれば、剣士を倒すのは力であり、力を宿すのは刀であり、刀は剣士を産むのだという。
その法則は、彼という剣士を生誕させた。
或いは、転生だったのかもしれない。忌まれ生きる人間から、闘争と決闘に生きる剣士への。
名声と悪名、剣技と強敵――そして、彼はついに名を得る。
【名無し】の剣士。
それは、彼が剣士として得た唯一の誇り。
そして、剣士である彼が生きるための、唯一の証。
湖を割るよう水柱を上げ、兵士たちの前に降り立ったのは、奇妙な男だった。
歳は、二十歳そこそこだろう。まだ、大人として年若い頃である。
肌は少し浅黒く、背はしゅっと高い。顔立ちと視線は、まるで割れた御影石のように鋭利。
目をまたぐように顔の左半分をえぐるように走るのは、ばかでかい十字型の傷。
鋼のようにしなやかな筋肉に覆われた肉体を包むのは、胴に灰色の太い長布をぎゅっと巻いた黒い衣。
はっきり言って、奇妙なデザインである。まず、ボタンやベルトがない。鎖が露出していないから、懐中時計を入れるためのポケットもないに違いなかった。
袖の形が似ているため、修道士や魔術師が着るローブに見えなくもない。だが、その胸元は大きくはだけ、デザインとしてはいっそ冒涜的ですらあった。
裾もおかしい。足元まで隠すのが当たり前であるはずなのに、すねが露出する中途半端な長さに仕上がっているのだから。
おまけに、穿くのは靴ではない。足首から指先までぴったりと覆う固そうな布、それを更に荒縄を複雑な形に編んだもので戒める、まるで拘束具のようなサンダル。
着流しも帯も、足袋も草鞋も知らないのだから、当然と言えば当然だろう。
しかし、それら以上に目を引くのは、その容姿を彩るものたち。
胸元と腕から覗くのは、虎の全身に走るしまを思わせる、攻撃的な意匠のイレズミ。
胴に巻いた灰色の長布に挟むのは、一振りの日本刀。
なにより、曼殊沙華を思わせる、不吉なまでに赤い髪。
兵士たちの間を、緊張が走り抜ける。
第一、こいつは誰何の声に対して、答えようという意志を見せなかった。
されど、腕に抱えているものを見れば、敵であることは火を見るより明らかである。
キリは、薄く目を開く。
息ができない水の中、苦しさが限度を超え、意識はぐちゃぐちゃになっていた。
でも、ちゃんと覚えている。誰かが、自分を助けてくれた。
背中と膝の裏に、なにか固いものが当てられている。抱き上げられているのだ。
目を開いているはずなのに、視界は真っ暗だった。きっと、頭と胸ががんがん痛くて、息がうまくできないせいで、目がおかしくなっているのに違いない。
それでも、キリは見ようとした。誰であっても、自分を助けてくれた人だからだ。
その人は、本当に、人だったのだろうか?
「……デッド・スワロゥ?」
見えてしまったものを無意識のうちに呟いて、キリは意識を手放した。
敵を察知した蜂みたく、危険であることを仲間たちに伝播させていく兵士を、【名無し】の剣士は黙って見ていた。
黙っていたかったわけではない。
「ふむ、声を失ったか」
『ディスコルディア……てめぇ、謀ったな!』
吐き出された悪態は形を成さなかった。
喉が、震えない。舌が、動かない。
声を発するための器官が、機能を失っている。
「フーフフフ♪ 分らんのかなぁ? 大いなる力を得るためには、それなりの代償が必要なのだよ」
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