【ルーザー=デッド・スワロゥ】 第1話
アシュロンの森は、鬱蒼とした森林だ。「異なった」世界における、シュヴァルツヴァルトのような。
もっとも、そのような表現ができるのは、限られている。
キリは勿論、表現できない側だ。物心ついた時からトルシュ村で育ったキリにとって、世界とはトルシュ村だけなのだから。
故に、アシュロンの森は魔境だった。
「決して、入ってはいけないよ」
大人たちは、キリたち子供にそう言いきかせる。トルシュ村を隠してくれるそこは、魔物が潜み、血も涙もない犯罪者のねぐらであると。
「じゃあ、なんでわたしたちは、そんな恐ろしい場所に囲まれて、息を殺すようにして暮らさないといけないの?」
疑問に答えてくれる大人は、誰もいなかった。でもキリは、つい先ほどその理由を身をもって知ることになる。
風の流れに乗って、恐ろしいものが沢山流れてくる。鎧が鳴る音、馬が立てる蹄と呼吸音、鋼と血の臭い。
「亜人は見つけ次第、殺せ!」
「逃がすな、亜人は殺せ!」
「殺せ! 亜人は殺せ!」
そして、狂ったように放たれる罵声。
正直、あの虐殺の場を、一体どうやって生き延びることができたのか分からない。しかし、なんとか逃れたキリを待っていたのは、悪夢だった。
悪夢なら、どれだけよかっただろう。悪夢なら普通、目覚めれば終わってくれる。
「助けて」
キリが発した哀願を聞き届ける者はいない。
「嫌、死にたくない……!」
黄金色の目から、涙があふれ出る。
怯えを嘲笑うよう、風に吹かれた枝葉が鳴る。
「誰か……助けて!」
それでもキリは、「誰か」の助けを哀願し続けた。
故に、気付かなかった。ポケットに収まるものが、ぼぅっと青く光を発し始めたことに。まるで、聞き届ける「誰か」を、求めるかのように。
その「誰か」は、まだこの世界を知ることはなかった。
何故なら、彼はまだ、死んでいなかったのだから。
かつて、その世界には魔王がいた。強靭な肉体を持ち、想像を絶する魔力を振るい、亜人と魔物の大軍勢を従えていた。魔王が通った後には、廃墟と死体しか残らなかったという。
その存在は、歩く災禍そのもの。尽きぬ野心と飽くなき欲望は、やがて世界そのものを滅ぼしかけた。
故に、魔王は【転生者】に滅ぼされる。
【転生者】の偉業によって、人間とエルフと獣人は、平和と豊穣と新たなる秩序と価値観を手に入れた。
それから五〇〇年。長く続いた平和な世界に、不吉な影たちが降り立とうとしていた。
島があった。酔狂で育った緑と、砂浜と、打ち上げられる流木以外、なにもない小さな島だ。決闘の場として選ばれたのは、そんな場所だった。
両者は激突した。
稲妻の速度で繰り出されるのは、全て必殺の一撃。
剣戟は、さながら噛み鳴らされる餓狼の牙。流血を渇望し、相手の命を喰らうまで、己の命が尽き果てるまで、止まることは決してない。
ここに繰り広げられるのは、激しい斬り結び合い。
しかしそれは、唐突に終わる。
一閃!
静止する、二人。曼殊沙華の赤が、吹き上がった。
瞬間、全てが決まる。一人は勝者となり、一人は敗者に成り下がる。
彼は一人、砂浜にいた。
見ようによっては、敷き詰められた曼殊沙華の上に横たわっているように見えるだろう。
それほどまでに、鮮烈な光景だった。無惨に割られた額から未だ流れ続ける血の海に、仰向けに倒れる敗者の姿というのは。
もう間もなく最期を迎えることを、彼は悟っていた。
「迎えは……お前たちか」
彼の視界の中でのみ、それらは舞う。複雑な軌道を描く都度、藍色の両翼が淡く輝く。細くて小さな形でありながら、翼を持つどの存在よりも早く飛ぶ。飛燕という言葉の通り。
それらは、燕だった。数多の、それこそ、空を覆い尽くすほどの。
事実、彼はそれだけ燕を斬った。全ては、最速の剣技を究めるため。
そのような蛮行に至った理由は、至極単純。彼は、強き剣士でありたかった。
否、話はそれ以前だ。彼は生きるため強くならなければ、生きるためだけに強くあらねばならなかった。未だ戦乱の種が芽吹く乱世の時代、弱いことは罪そのものである。
それだけなら、それだけよかっただろう。彼には、生まれながら烙印があった。万死の罪の象徴を持つことを表す忌まわしいもの、自分から流れ出た曼殊沙華と同じ色をしたそれが。
だから、強くなるしかなかった。彼は、我武者羅に抗った。最速の剣技は、そのための手段の一つだ。
「だが……俺は、敗れたのだ」
夕陽が、沈む。
かりそめの終焉を迎える世界が、赤く染まっていく。
その下で、彼は逝こうとしている。最期の時、幻影の燕たちに囲まれながら。
「さぞかし俺が憎かろう、燕たちよ」
彼は笑っていた。闘争と流血に彩られた道を進んだ、短い生。
「俺は神速の領域の剣技を手にすべく、お前たちを斬った。斬って斬って斬って、斬った。結果はどうあれ、俺はお前たちの屍を踏み台にした。そして、この敗北は、お前達への冒涜だ。……俺を地獄に連れて行くなり、なんなり好きに」
だが、悔いのない人生だったはずだ。
「なんなり好きに、なんだ?」
「……ッ!?」
一瞬、我を失いかける。それだけ衝撃的だったのだ。彼を覗き込むようにして立つ、異様な存在は。
奇怪な風体の少女だった。
結うことも留めることもせず垂らした長い髪は、虹の光沢を持たない螺鈿の色。肌は、砂浜に打ち上げられた貝殻のように透き通った白。身に纏うのは、漆黒の布地を複雑に縫い合わせたゴシックドレス。
少女は、異人だった。日ノ本の国の人間の色を持たぬ、外の人間。
目が合うと、少女は瑠璃の色の目を細めた。笑ったのだろうか?
否、嗤ったのだろう。純粋な異人にしてみれば、彼は蝙蝠だ。獣でありながら翼を持ち、鳥でありながら牙を持つ中途半端な存在。転びバテレンが戯れに市井の女に孕ませた、異人でも日ノ本の人間でもない、彼という存在は。
「……悪くない。お前でよさそうだ」
その声は、ひどく優しい。故に、彼は戸惑いを隠せない。桜貝を思わせる薄い色の唇から紡がれるのは、剣士として名を馳せるまで、それこそ生まれ落ちた時から浴びせられ続けてきた、いわれのない罵りではなかったのだから。
「戦いに身を委ね、武を窮めんとした。されど、無様に破れた。そして、このまま逝く。つまらぬと思わないか? つまらぬ、と云うのなら」
彼のそんな感情を、少女は無視する。そして、一方的に喋りたててくる。
「雛僧、わたしを受け入れろ」
「一体、なにを、言っている?」
それよりも、お前は一体、なんなんだ?
直後、抱いた疑念は、直感に変容する。この異人の少女は――否、そもそもこいつは、人間ではない。
死神、あやかしの類、火車。いずれにしろ、ロクな存在ではないに違いない。
「ここで散ることを、無様に終わることを拒むのなら、死の境界を踏み越えた先、安寧など許されぬ戦場に臆さぬというのなら、至高を渇望するというのなら……雛僧、わたしと契約し、【騎士】になれ。
わたしは【魔神】ディスコルディア。【英雄】の資質を持つ人間を、【騎士】へと昇華させる者」
紡がれた言葉は、彼を混乱に陥れるものばかりで構成されていた。
それでも、分かることが、唯一つ。これは、誘惑だ。ディスコルディア――複雑なまじないの言葉のような名を持つそいつは、彼を誘っている。
「強さを与えてやろう、とこのわたしは言っているのだ。それこそ、お前を打ち破ったあの剣士を超える」
その言葉が、引き金となる。彼の脳裏に、記憶に刻まれた光景が、断片的に浮かぶ。
独りあてもなく流離う幼少時。
刀を振るい、殺すことを覚えた少年時代。
ただひたすら剣技を磨き、剣士の名声と悪名を広めた青年時代。
あの凄腕の剣士との決闘。
彼を打ち負かし、悠々と去っていく勝者の後ろ姿。
敗者である彼に、目を向けることはない。
本当に、悔いのない人生、だったのか?
このような最期のためだけに、俺の人生はあったのか?
彼は、今、揺らいでいた。
「迷うな、時間はあまりない。お前の命は、既に燃え尽きかけの蝋燭だ。間もなく、死神の腕に抱かれよう。さあ、どうする?」
異変は、唐突だった。ディスコルディアの背後から、煙が吹き上がる。吹き上がるそれは、硫黄の臭気。言うなれば、それは扉だ。この世のものではない存在が、現れるための。
現れたそいつは、髑髏だった。全身をぼろぼろの黒衣で包み、手には大鎌を携えている。その手の知識に疎くとも、あの世からの使いであると、彼は瞬時に理解した。
「の、ぞ……む」
「ほぅ……」
「渇望すると……俺は言った、のだ! ディスコルディア!」
故に、彼は堕ちた。
「契約だ! 俺を、この俺を【ドラウグル】に……そして、至高へと導け! 俺は契約を渇望するぞ! ディスコルディア!」
「契約、成立だ!」
ディスコルディアは、笑みを変えた。「してやったり!」と嗤う、奸智に長けた悪党の笑みに。
それが、彼がこの世界で見た最後のものとなった。
死神は、死にゆく者の魂の匂いを嗅ぎつけ、現れた。異様なにおいを放つ存在を押しのけ、魂を収穫しようとする。
瞬間、光が大爆発した。奔流となって荒れ狂い、死神を吹き飛ばす。
死神は、見た。ことの元凶が、大いなる変貌を遂げるのを。
巨大な両翼、王冠のような冠毛、長い尾羽。それらは全て、真紅と黄金を帯びた純白。
ディスコルディアの姿は、既になかった。代わりに現れたのは、神々しい輝きを放つ巨鳥。
「今しばらく微睡め、雛僧……いや、我が【騎士】! いざ、行かん!」
死神は、激昂した。鎌を振り上げる。腹を引き裂いて、奪還するつもりだった。死神の獲物は、既に巨鳥の中に納まっているのだから。
だが、相手の方が早かった。ことを行おうにも、既に遅し。翼を羽ばたかせ、大空へと飛び立っていたのだから。
その世界の歴史の記録によれば、ある時一人の男が決闘に破れ、無念の死を遂げたという。
しかし、これはまだ、物語の序章の一つに過ぎない。
何故なら、時代と場所は異なるが、同じようなことが世界各地で起こっていたからだ。
史実によれば、その王はかのオスマン帝国を退けた偉大なる名君であり、されど、敵や反逆者を容赦なく処刑する暴君でもあった。
臣下の裏切りにより、その命は今まさに尽きようとしていた。
「竜の名を持ちし誇り高き名君にして暴君よ、我が名は【魔神】ミスラ。ヒトを……【英雄】の資質を持つ者を、【騎士】に昇華させし者なり」
史実によれば、その狙撃手は超越した狙撃の腕を遺憾なく発揮し、数多の敵を撃ち殺したという。
戦後は穏やかな生活を送り、ゆっくりと老いを重ねたその命は、今まさに尽きようとしていた。
「絶対無敗の銃の勇士よ、我が名は【魔神】メリュジーヌ。ヒトを……【英雄】の資質を持つ者を、【騎士】に昇華させし者なり」
史実によれば、その剣鬼は最強にして最後の剣客集団【新撰組】を支え、時のうつろいに抗い、護るべきもののためにその卓越した剣技を振るったという。
遥か北の地で行われた戦いの最中、その命は今まさに尽きようとしていた。
「剣鬼と恐れられし武士よ、我が名は【魔神】ペルセポネ。ヒトを……【英雄】の資質を持つ者を、【騎士】に昇華させし者なり」
史実によれば、その男は最強にして最後の剣客集団【新撰組】の一員として、時のうつろいに抗い、仲間たちを――なにより盟友を護り鼓舞するため、剣を振るい続けたという。
退くことが許されぬ激戦の最中、その命は今まさに尽きようとしていた。
「昇ることなく命を終えた心優しき者よ、我が名は【魔神】アスタロト。ヒトを……【英雄】の資質を持つ者を、【騎士】に昇華させし者なり」
史実によれば、その無法者は腕利きのガンマンとして無法が渦巻く時の西部開拓時代を生き、二十一歳で死ぬまでに二十一人を殺したという。
暗闇の中、追っ手が放った銃弾により、その命は今まさに尽きようとしていた。
「無念の果てに潰えし法に繋がれざる者よ。我が名は【魔神】イシス。ヒトを……【英雄】の資質を持つ者を、【騎士】に昇華させし者なり」
史実によれば、その少女は祖国のため、なにより自分を導いた神とキリストのため、兵を率いて戦場を駆け巡った。
虜囚の身に落ち、魔女の汚名を着せられ、火刑台に上がる炎の中、その命は今まさに尽きようとしていた。
「可憐な少女にして勇猛な聖女よ。我が名は【魔神】ヴェルダンディ。ヒトを……【英雄】の資質を持つ者を、【騎士】に昇華させし者なり」
これは、もしかすれば、ありえたかもしれないことだ。
されど、この世界の歴史の一端でしかありえず、もう終ってしまったことだ。
そして、【騎士】となった者たちにしてみれば、最早関係ないことなのだ。
ひっそりと隠れるように、トルシュ村はあった。
聞くところによれば、村人の祖先たちは、あの戦争から始まった差別や奴隷狩りから辛うじて逃げ延びた者なのだとか。
小さいながらもしっかりとした造りの、木造の家屋が建ち並ぶ。その間には、収穫を待つ畑や共同井戸のある広場へと通じる道が走る。草地では牛やヤギがのんびりと草を食み、鶏が地面をつつく。
日々の小さな幸せと安寧を願い、生きる人々の生活が見える、慎ましく整った村。
村人の姿が見えない村を、そいつらはアシュロンの森からじっと見ている。
トルシュ村に一軒しかない酒場。そこは、仕事を終えた村人たちが週一回の割合で一杯引っ掛ける、ささやかな娯楽の提供場である。そこに、村人全員が集っていた。
なにも知らない者からすれば、異様な光景だろう。
ニガヨモギ色の肌、垂れた耳と潰れた鼻、全体的にぽってりとした体形の、オークの亜人。
背はそんなに高くなく、樽みたいなずんぐりむっくりの体躯、髭をぼうぼうと生やした、ドワーフの亜人。
二足歩行の子犬のように愛らしい姿の、コボルトの亜人。
全員、亜人である。この世界において忌み嫌われ、「悪」そのものと定められた種族たち。
その誰もが皆、精一杯のおしゃれをしていた。若き一組の男女が愛を誓い、結ばれる結婚式に、野良着や作業着で駆け付けるなんてとんでもないことだからだ。
そんな中において、キリはまるで、麦の袋に紛れ込んだスイカの種みたく、浮いていた。身に纏うのが、滅多に着ないよそ行きのワンピースドレスだからではない。
蜂蜜を溶かしたミルク色の肌、ぱっちりとした黄金の瞳、さらさらロングの髪は秋空のように澄んだライトブルー。肌は獣毛や鱗に覆われていないし、尖ったり垂れたりしていない耳は丸い。
ぱっと見て、キリは人間にしか見えない。亜人を敵視し、憎む「善」なる種族そのもの。
実際、キリは人間である。ただし、半分だけ。
聞いた話によると、おおよそ十三年前、トルシュ村に一組の男女が現れたのだという。
奴隷狩りの恐ろしい魔の手から逃げてきたという亜人の男性と、逃亡の手助けをしたために追われることになった人間の女性を、村人たちは匿い、村の一員として受け入れた。
その二人が逃亡生活の最中もうけたのが、キリなのだという。
「でも、あんまり実感できないよ」
多分、キリは母親の血が濃いのだと思う。記憶に残る父みたく、肌は青くないし耳は尖っていないし。でもだからといって、母そっくりにもならなかった。
それでも、いつか聞こうと思っていのだ。だけどその頃にはもう、両親は亡き人だった。
「キリ、キリ」
肩をつつかれる。はっ! と意識を現実に戻したキリに、紙吹雪が入ったバスケットが渡される。友達のラロとモルとロロ、コボルトの亜人とゴブリンの亜人とオークの亜人が、目の前に立っていた。
「いいか?」
ラロは、真剣な表情でみんなを見る。
「練習通り……いくよ!」
「……ごめん、おしっこしたい」
「ロロ!」
「さっさと行ってこいよ、もう!」
「それでは、新郎新婦の入場です!」
酒場の奥の扉が開き、婚礼の衣装に身を包んだ若い亜人の男女が出てくるのと、ロロが野外に設けられたトイレへ行くのにこっそり出て行くのは、ほぼ同時だった。
「ラドゥさん、ドゥーラさん、ご結婚おめでとうございます!」
村人たちが、祝福の言葉を紡ぐ。ラル、モル、キリは、バスケットの紙吹雪をまく。紙吹雪が、新郎新婦に降り注ぐ。
「ラドゥさん、ドゥーラさん、どうか末永くお幸せに!」
皆からの温かい祝福を受け、新郎新婦は微笑んだ。今、この場には、二人の結婚を心から祝う人々の幸せと笑顔が満ち溢れている。
ロロが戻ってこないのに、誰も気付いていない。
「急がなくちゃ! 急がなくちゃ!」
用を足し終えたロロは、走っていた。今日は、村をあげてのお祝いの日だ。ドゥーラさんが、お嫁に行く日なのだ。
ドゥーラさんは、ダークエルフの亜人である。魔王に追随した裏切り者とされ、亜人に落とされたと伝えられるエルフの一属。
でも、それがなんだ! とロロは思っている。
ドゥーラさんは、よくお菓子を、ナッツ入りのクッキーやベリーのパイを作ってごちそうしてくれた。それがただの趣味ではない証拠に、ドゥーラさんの腕には火傷の痕があった。菓子を乗せた重い鉄板をかまどに入れる際、たまにやらかしてしまうドジなのだと。でも、ある意味菓子職人の見習いにとっては勲章みたいなものだと。黒褐色の肌に刻まれたそれを、ドゥーラさんは誇りにしていた。
そんな素敵な人、ロロにとって憧れの女性が、今日、お嫁に行く。いの一番で、お祝いを言うつもりだった。結局、尿意に勝てなくてだめだったけど。
だけどせめて、みんなで練習したお祝いの歌だけはきちんと届けたいのだ。
そんなロロの後ろ姿を見る、いくつもの目。目の持ち主たちは、アシュロンの森の中に潜んでいた。
そのうちの一人が、背負っていた弓を構えた。矢を番え、狙いを定める。そして、矢が放たれる。狙い通り、矢はロロの首に命中した。
死んだオークの亜人の子供の周りに、目の持ち主たちが集まってきた。
その中心に進み出るのは、黒い軍服に華美なデザインの鎧に身を包んだ若い女だ。女は、帯びていたレイピアを抜いた。同時に、旗が掲げられる。
真紅の布地に描かれるのは、【大いなる黒き竜】の紋章。大陸に名を馳せる大国が一つ、【黒竜帝国】の威を示すもの。
「これより、亜人どもを殲滅する!」
「応!」という声が、一糸乱れず応える。
結婚式は、大いに盛り上がっていた。村人たちは、生涯を共にし合うことを誓った男女に、お祝いの言葉を述べていく。中には、ささやかな贈り物をする者もいる。
「ロロ、帰ってこないな……」
大きい方にしても、いくらなんでも遅いような気がする。これじゃあ、お祝いの歌を歌えない。この日のために、みんなで一生懸命練習したのに。
モルとラロはいない。さっきまでぶーたれていたのだけど、出されたごちそう――ふわふわに焼いた卵とか、川海老の素揚げとか、チーズを乗せた薄焼きパンとかを目にした途端、ダッシュで行ってしまった。
誘われて、キリも一応行った。
「キリ、どうした?」
取った揚げ菓子は、しょっぱかった。白砂糖がたっぷりまぶしてあるのに。
一人離れ、涙ぐんでいたキリを心配したのだろう。給仕を手伝っていた、ロナーが来てくれた。
ロナーは、キリにとって頼れる近所のお兄さんだ。三つ年上の、ダークエルフの亜人だ。目があったり声をかけられたりすると、心臓がどきどき大騒ぎして、顔がぽぅっとなってしまう――何故か分からないけど。
「ううん……ちょっと、おセンチになってただけ」
キリは、涙を拭う。
「お父さんとお母さんも、あんな風にみんなにお祝いしてもらったのかなって思って」
「キリ……」
亜人の父は五年前、人間の母は三年前、流行り病で亡くなった。
聞いた話によれば、父と母が結婚したのは、トルシュ村にやって来てからなのだという。
「わたしも、大人になったら……村の誰かのお嫁さんになれるのかな? わたし、純粋な亜人じゃなくて、半分人間だけどさ」
おおよそ五百年前まで、この世界は荒れ狂う魔王の脅威にさらされていたという。
魔王は強靱な肉体を持ち、想像を絶する魔力を振るい、亜人と魔物の大軍勢を従えていた。
この恐ろしい脅威に立ち向かうべく、人間とエルフと獣人は手を結び、同盟軍を結成。両勢力は激突し合い、戦争が幾度も起こった。それは何百年にもわたって繰り返され、多くの英雄譚が生まれたという。しかし、悲劇もまた多く繰り返された。
このままでは、世界が魔王の手に落ちるか、世界そのものが破滅しかねない。
終わりが見えない戦争に終止符を打つため、人間とエルフと獣人の高位魔術師たちは魔力の粋を結集した。そして、「異なった」世界から【転生者】――後にこの世界を救うこととなる勇者を呼び寄せる。女神に授けられたというチートスキルと「異なった」世界の知識を持った【転生者】は、仲間たちと共に魔王を討ち滅ぼした。
力の象徴であった魔王を失った軍勢は、総崩れとなる。以降、亜人と魔物は憎悪の対象となった。戦後、【転生者】により、全ての存在は「善」なる者と「悪」しき者に識別さ(わかれ)れることになる。
「善」なる者は、人間とエルフと獣人。
「悪」しき者は、亜人と魔物。
それが、あらましだ。【転生者】が救ったこの世界の現状、厳然たるルールが支配する。
「「善」なる者でも「悪」しき者でもないわたしって、一体なに?」
以来、キリの思考は出口の見えない迷路の中を、ずっと歩き回っている。
「そんなのかまうかよ! キリはキリだ」
ロナーはそんなキリを叱るように声を荒げた。
「シヴァさんとヒトミさんの自慢の子供のキリだ。トルシュ村で一番かわいいキリだ。ベリーのジャムを作るのが得意なキリだ。上着に刺繍をするのが下手くそなキリだ。おれのかあちゃんが作るシチューが大好きなくせに、にんじんが苦手でおれの皿にいつの間にか押し付けてくるキリだ。トルシュ村の一員のキリだ!」
「ロ、ロナー?」
そこまで言うと、ロナーはそっぽを向いてもじもじしてしまった。見たら、ダークエルフの亜人特有の、先端が短剣の刃みたく尖った形の耳まで真っ赤になっていた。心なしか、垂れてへにゃんとなっているように見えなくもない。
わけもわからず首を傾げるキリに、ロナーは、自分のポケットに手を突っ込んだ。
今思えば、だ。あの時、ロナーはキリへのペンダントを、青くきらきら光る石を加工して作ったそれを、プレゼントしようとしていたのだ。
「だから、もしよかったら、俺と」
がしゃーん! と、派手な破砕音が響く。キリはてっきり、調子に乗って飲み過ぎた誰かがお皿でも落とした音だと思った。
実際は、そうじゃなかった。誰かが、悲鳴を上げた。絞め殺される千匹の猫の断末魔のような、人の口から決して上がってはいけないものだ。
あとで思えば、それを上げたのはロロの母だったような気がする。酒場の窓を破るように投げ込まれた、ロロの亡骸を見た。
酒場の扉が蹴り破られる。どかどかと、足音荒く乗り込んできたのは、黒い軍服に鋼の鎧に身を包んだ集団。
「昼間からこんな所に集まってパーティーか、亜人ども!」
彼らは、剣や槍を構えた。
「だが、好都合だ!」
だからキリは今、アシュロンの森を走っている。覚めることが叶わぬ現実と化した、悪夢の中を。
【黒竜帝国】の兵士たちは、亜人の少女を追いかけていた。
子供とはいえ、討伐隊や奴隷狩りからせこせこ五〇〇年も逃げ続けている「悪」しき者だ。故に、馬を駆っても捕まえることができそうにない。
村の亜人たちは、【黒竜帝国】への恭順を拒む反逆者だ。故に、見つけ次第全員殺すよう、兵士たちは命令を受けている。だが、殺す前に手を出してはいけないとは聞いていない。
故に、彼らは「お楽しみ」を欲していた。「悪」しき者を蹂躙する、最高の「お楽しみ」を。
そのための武器を取り出す。スリングという、遠心力の力で石を飛ばす武器だ。
石をセットし、頭上で振り回す。十分勢いがついたところで、放つ!
狙い通り、亜人の少女の背中にぶち当たる。兵士たちの間から、下卑た歓声が上がった。
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