優しさの送料

他人が困っている、悲しんでいる時に心に湧き上がる慈愛の総量が人の優しさなのだろうか?

もし何も感じないのであれば、人は優しくないのだろうか?

優しくない人間であることが怖くなり、できれば優しい人間でありたいという願望が心配しているテイという『表現』として外部に表出させている気もする。

優しい人間という概念に近づく為に人を助けた場合それは優しさだろうか?

そもそも優しいとか礼儀正しいとかの形容詞は自分軸、他人軸どちらの視点にもよる。

もし他人がその行為を優しいと判断すればそれはある種「優しい人」に認定されるわけだが、自分からすれば『優しい人ではなく優しいと思われることをしている人間なのだ』とへりくだる。

優しいのと優しくするのは違う。以前読んだ文章が頭によみがえる。

困っている人に会った瞬間にその人に寄り添える人は特に何も考えず、本能や身体が細胞が0コンマ1秒で助ける行為を選択している気がする。

それは無意識化であり無意識ということはそれをこれまでずっと続けてきたからの自動化なのかもしれない。

もし現状己が何も感じず、瞬間的に動けない人間でも優しい人間になりたいと願うのであれば、思考を介して毎回寄り添うという行為を選択し続ければ、思考を飛び越えた本能でもって無意識化で寄り添えるようになれるのかもしれない。

他人からも自分からも優しい人間になったといえるのかもしれない。

ただ思考を好むタイプの人間にとってその行為はあまりにもわざとらしく不愉快で、後ろめたさを感じる行為であり、抵抗なくしては訓練できない。

そういった自意識過剰な感情をどこかに置いてきて、気づかない振りをする忍耐力と呼べるものが自分にはないように思い、困惑してしまう。

本当に優しい人はこんな訓練的なこともやっていないのでは?と思うと恐ろしさを感じる。

のび太君は人の悲しい時に一緒になって悲しむことのできる人間だ。

のび太君の凄さは大人になった今になってやっとわかった。

0点をとるという振り切った才能。

ただその一方で天才という簡単な言葉や括りで片付けられてしまうイチローが相当の努力を重ねてきたか…のび太君も積み重ねた努力と勇気があったからこそしずかちゃんと結婚できたとも言える。

下心のある優しさと、てらいのない優しさは人からどちらも優しいと捉えられるのであればよかろーもんである。

ぐちゃぐちゃ考える暇があれば、動け。とりあえずの結論はこれである。

ただし、優しさの送料はフリーであるとなおいい。


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