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ツァラトゥストラかく語りき vol.1

——こうして、ツァラトゥストラの没落は始まった。

 贈りたい。分け与えたい。世の知者たちが再びおのれの無知に、貧者たちがふたたびおのれの豊かさに、気づいてよろこぶに至るまで。
 そのためなら、わたしは低い所へとくだっていかねばならない。君も暮れ方になれば海の彼方に沈み、昏い下界にも光をもたらしているように。君よ、華奢なまでにゆたかな星よ。

フリードリヒ・ニーチェ 著, 佐々木 中 訳, "ツァラトゥストラかく語りき", 河出文庫, 2015

ツァラトゥストラが山をくだる前の言葉だ。彼は三十路になったとき、故郷と故郷のみずうみをすてて山に入って10年のあいだ倦むことがなかった。その10年を経てある日、ある朝、ついに心が変わり、山をくだることに決めた。

「贈りたい。分け与えたい。」
ツァラトゥストラの喜びはここに存在する。

今を生きる人間とは真逆の倫理がそこにはある。
というのも、われわれにとっては(キリスト教世界の倫理によれば)贈り物を与えられた側が与えた側に感謝をするのが”一般的”な倫理であるからである。

贈り物を与える側にはキリスト教的同情の観念がある。この同情の存在は人々に上下関係をもたらすこととなる。そうして贈られた側は下方から上方へと感謝の意を示す。

例えば、今日食べるものに困っている人に食べ物を分け与える時、そこには同情の観念が存在しないだろうか。相手への”憐れみ”や自己の”卑しさ”から分け与えてはいないだろうか。そうした時与えた側が感謝をする、というよりもむしろ、与えられた側が感謝をするのが普通のことのように思われる。

これは同情の観念が存在しないような誕生日の贈り物にしても、普通は贈り物を与えられた側が「ありがとう」と言うのが通例だといえよう。

しかしツァラトゥストラはこれとは全く逆の価値観の中にいる。彼は、彼の振る舞いによってこの世界に価値転換をもたらしている


ツァラトゥストラの倫理、それは『贈られた側ではなく与える側が感謝をする』こと。キリスト教の倫理とは反対のことである。つまり、同情によって与えることが素晴らしいことだとは認識しないことである。

下っていこうとする人々の言い方を借りれば——



また、この文脈の中にはもうひとつの価値転換が存在している。
それは「没落:under go」についてだ。


ツァラトゥストラは「没落」したのかという問いが長らくあるようだ。没落というのは通常悪い意味で捉えられることが一般的である。

ぼつ‐らく【没落】
[名](スル)
1 栄えていたものが衰えること。「没落した貴族」
2 城や陣地などが敵の手に落ちること。陥落。

デジタル大辞泉「没落」

ツァラトゥストラが没落、つまり栄えたものが衰えると考えることは間違っているという指摘に関しては、その没落自体、それ自体がひとつのこの世界の価値観でしかない。彼らは没落ではなく、降臨という表現をあてはめようとする。

しかしこれに関してはツァラトゥストラ自身が太陽とおなじようにみずからも振る舞うことを想定していることは以下の文章から明らかであるので、「降臨」ではなく「没落」、その読み替えが発生しているということのほうが理解し易い。

 そのためなら、わたしは低いところへとくだっていかねばならない。君も暮れ方になれば海の彼方へ沈み、昏い下界にも光をもたらしているように。君よ、華奢なまでにゆたかな星よ。 
 わたしも、君のようにしなくてはならない。わたしが下っていこうとする人々の言い方を借りれば、没落せねばならない。

同著,   14頁

ツァラトゥストラ自身は、この太陽が沈んだとしても、沈んだ後それまで照らされていなかった地域を照らしに行くだけのことであると考えている。「没落」ではなく、新たな場所を照らしにいくだけのことなのである。ここで「没落」の読み替えが発生している。

悪いことだと思われていたことを良いことだと読み替える。
それがツァラトゥストラの価値転換である。

「没落」に関しての誤解もそうであるが、他方でも誤解されている読み方があるのでメモ程度に書いておく。

善人は危険のない人でなければならない


善人が世の中をダメにしている、というニーチェ解釈がある。この言葉を安直に読み、善そのものが社会をダメにするというのは筋が違う。

……奴隷的な思考方法においては、善人は危険のない人でなければならないからである。善人は温厚で、だまされやすく、おそらくどこか愚かであり、善良な人である。奴隷の道徳が優位を占めるところではどこでも、言語は「善」(グート)という語を「愚か」(ドゥム)という語に近づけようとする傾向があるのだ

ニーチェ『善悪の彼岸』

ナチスドイツの体制の中での善人はヒトラーを崇拝し、ユダヤ人を虐殺する人が”善人”であった。つまり、社会にとって危険のない人であった。

歴史上、社会にとっての危険分子は消される。ギリシアにおいてはプラトンやアリストテレスがそうだ。当時の社会や体制にとっての”悪人”は今日の”善人”である。われわれはものを考える時、今の社会の良い悪いという基準を超えて、メタ認知をしながら遠い未来にとっての善悪を念頭に置かねばならない。

それが例え現在の人々を相手に破滅の道を歩んでいるとしても、だ。

 わたしは愛する。来るべき人々の正しさを擁護し、過ぎ去った人々を救う者を。彼は現在の人々を相手にして破滅しようとするから。

同著, 24頁



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