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21時15分の帰り道

肺に空気をとりこもうと幾らか顔を上向ける。息を吐ききったのかどうか意識もしないまま、からだの自然に身を任せる。通り道のととのった鼻腔から鼻の付け根、目頭までさあっと少し冷えた空気が巡る。

ハイチュウの香り——。

赤葡萄の、薄い紫に身を包んだ長方体の、中は濃い紫になっているあの甘くねっとりとした飴ともガムとも似つかないもの。その香りがなぜかその道には漂っていたらしい。人が少なくなるような、朝の早くや夜の深い時というのはなんだか人の気配というものが薄く沈んでいって、代わりに道、あるいは家屋や木々から違う何かが浮き出てくるようなのを感覚する。今夜はそれが、どこにでもあるような懐かしいような甘さを含んでいた。

別段雨が降っていたわけではない。今日も一日天気がよく心地の良い空気であった。だけれども今日の夜というのはなぜか雨の降った痕を記憶させた。キラキラと舗装された道路が反射していたような、カラカラと細かな石の粒が街灯の光に喜んで音を立てていたような、そういう風だった。どこかに薄くはられた、水面の歪んだ水たまりさえあったように思えてくるのだった。それでも、雨が降っていたわけではなかった。

背の高い、細い片足だけですっと佇んで、頭の上に眩しいくらいの白百合色を放つ光源。その隣を縫うように、歩く。左へ右へ、時折中央へ。自分以外誰もいない、この二車線を自由にしているのが気持ちを高揚させる。二車線の交差点を曲がると狭い一車線になって光源も隣との距離がはなれて、自信なさげに立ちすくんでいる。それを見るとこちらもなんだか心許ないのである。

そもそも夜道というのは、それも帰り道というのはなんだか心の持ちようが細くなる——大抵そういうものではなかろうか。そうやって細くなったのをどうにかして勇気づけながら足を左右と交互に動かす。動かしているのに集中していつの間にか目的地がぼんやりと顔を覗かせる。

ああ、もう少し。そう思う頃には時計の長い針は大きく半周をしている。

思えばすでに、ハイチュウの香りは消えていた。


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