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鬼才キム・ギドク死す〜人間の時間〜


先日、とある映画評論家の方とキム・ギドクの「人間の時間」という映画を観に行った。パワハラ、モラハラ問題で映画界から追いやられそうな彼の現状を考えると、快心の反撃を観られると思い胸を高ならせていた。別にキレイな映画や一般受けする様な映画が観たい訳ではなく、ただキム・ギドクから見えるその世界に対する深い情念、哲学を感じたかった。
先に結論から言うと。もうキム・ギドクは死んでしまったのかもしれない。
上映が終わった後に頭を抱えてしまった。隣にいる評論家の方も同じだった。

今日はその様な意味で、キム・ギドクに捧ぐレクイエムの様な気持ちでこの文面を書いている。キム・ギドクの過去の功績について皆さんご存知だと思うし、知らなかったとしても過去の作品はレンタルできるのでここでは触れない。

タイトルから察するに「人間の時間」と言うタイトルはTHE哲学だ。
人間とは何かは古代ギリシャのソクラテス、プラトン 、そしてアリストテレスから続く伝統的な問いであり、時間も同じである。これも古代ギリシャでも特にプラトンが問いとして挙げて、ショーペンハウアー、ベルクソンと西洋の哲学の中では常に中心の一歩外には時間論は存在していた。この誰もまだ知らない「人間×時間」にどうキム・ギドクが挑むのか。開始するまで胸がほんとに高鳴っていた。

内容を簡単に説明すると、クルーズ旅行していた船が急に空中に浮いて、食べ物争奪戦になり、人の肉を食べ、女性はレイプされ、最後は日本人女性が残り、レイプされた誰の子供か分からない子供と永遠と空の船の上で生きていく。というストーリーだ。
 実はこの映画の英題は『Human,Space Time and human』になっている。和訳された『人間の時間』というタイトルはspaceを意味する空間が抜けている。
直訳すると『人間、時空と人間』という風になるだろうか。この映画の批評ポイントを大きく2つにまとめる。

①キム・ギドクの人間観
②キム・ギドクの時空と人間の関係性
③まとめ

1ー1《キム・ギドクの人間観〜彼は人間の本姓をどう見るか〜》

 今回の映画を通じてキム・ギドクは人間の本姓をBarbarianism(野蛮性)に見ていた。というより彼の中では人間本姓=Barbarianism(野蛮性)だった。
 緊急事態になると人は、道徳を忘れて、とりあえず女性はレイプされ、善悪の判断を忘れ、欲望の剥き出しになる。それが彼の描いた人間の本姓だった。だから人々は殺し合い、権力に従い虐殺を行い、最終的に同種の人間を食べて生き延びようとする。しかしこの様な状態を人間の本姓であるというのはあまりにも中学生的な単純化された人間の解釈である。緊急事態において、人はそんなに簡単に野蛮化するのだろうか。当然のことではあるが、その様な状態でも矜持を持って行動する人間がいるのも実際の現実であり、それが道徳や精神性、さらに言えば人格、気質の力である。人間は生まれて社会化される。社会化され、ルールやマナー、道徳心を完全ではないにしろとりあえずは体得する。
いかに野蛮でないような社会を作り、その社会に生まれた人間を社会化するかが人間の文明の歴史であった。すなわちここまでの野蛮化は文明の否定であり人類文明の否定である。
 私たちは無意識に社会化されて、日々強化され現代にいたる。兵士が戦争に行き人を殺せるように軍隊では脱社会化をする。理由は一般社会の道徳では人を殺す事は禁じられていてそれを犯すと兵士の心理に強烈な負荷がかかるからだ。軍隊での訓練が異常に厳しいのはそのためだ。そうやって脱社会化しないと人を殺すというのは非常に難しいのだ。レイプなどもそうで、普通に社会化された人間ならなかなか難しい。 
 今作の映画のBarbarianismに走る人々が人を殺すことを快楽だと思っているような地域の人々だった場合、今作の映画はそこまで大きな矛盾を抱えず済んだかもしれないが、しかし出演者がスマホを持ち、現代的な服を来ている今日を生きる人だと思われる以上やはり映画の中の人々は社会化された人間を前提として考えなければならない。ならば誰もが培った身体性を一瞬で無くしBarbarianismに走るというのはあまりにも単純化した人間の解釈である。
 確かに人間は緊急事態になると行為態度を変えることがある。しかし、同時に人間は周りの人間がBarbarianismに走るのを見て自分を振り返ることを行う動物でもある。むしろその性質は非常に強固である。見出しに書かれている様に「善悪の境界線が揺らぐ」と歌うのであればもともと善を全員がある程度弁えている事になる。そうでないと悪もないからだ。ならば、渦中にいる彼らはBarbarianismを悪と捉えた段階で、自らの中にある善が非常に際立つ訳でもある。前提に社会化され善悪の判断があるその様な人間達が、なんの迷いもなくBarbarianismに流れるだろうか。唯一チャングンソク演じる男だけが、その様な善悪の狭間で戦っている様に見えたが、演出の問題も相まってただの中途半端な金持ちのボンボンに見えて最後には堕落してしまう。

1ー2《HumanとAnimalの関係性》 

 本作が描くように人間は本当に生存だけのため生きるのだろうか。もし人間性をそう仮定するのであれば、人間は他の動物と何も変わりなく、ただのanimalになる。実際、船の上の人々は欲望をむき出しにして、他者への思いやりはほとんどなく死んでいく。欲望の延長線の行動以外行うことはなく、中盤以降は一般的な冷静な理性的行動はほとんどない。非常にanimal的である。だとすると、人間の時間や人間本姓を描くために必要な人間の輪郭を失ってしまう。もしこの映画が「動物の時間」だったらこれでよかったとも思えなくもないが、人間を描く上であまりにanimal的で人間が不在だった。動物とは違う人間性は何なのか。道徳なのか、宗教心なのか、理性なのか。どこにそれを見出すかこそがまさにキム・ギドクが「人間」をどう描くかの確信的な部分だったのではないだろうか。人間の時間というタイトルで、人間がいなかったことはこの映画の致命的な欠陥の1つだろう。

1ー3《生命至上主義と身体性なきBarbarianism》

そしてもし人間を、生存第一に生きる物とするのならばそれは、今日の時代精神である生命至上主義と同じである。生命至上主義であれば、生きていることが何よりも最優先。これは同時に、自分の生存が際どくても最後まで他者に尽くすという精神性の否定である。生命至上主義は生きていることが最優先されるので、緊急事態に陥っても人を殺してでも自分が生きる事は肯定される。これは生命至上主義への強烈なカウンターでもある。キム・ギドクにとって生命至上主義は主義ではなく、本能であり、同一であると考えられる。この映画でも身体の死を超えた精神性は排除されている。唯一謎のおじさんが命を主人公に捧げるが、謎のおじさんの人物像が描かれなさすぎて精神が身体性と乖離しており印象がない。
 生命至上主義であり、そのためには何でもするのが人間ならば人間は精神の自由のない野蛮性の塊である。そこまで純粋なBarbarianismは社会化された身体を媒介しないのでリアリズムから非常に遠いだろう。キム・ギドクが見た人間の本姓はあまりにも薄く現実離れしている。方向としてBarbarianismを体現するために人間を使っているようにも見える。

2ー1《キム・ギドクの時空と人間の関係性》

今作のもう1つの主題である時空をキム・ギドクがどう描いているのかについて結論を出すとやはり中途半端である。
空に浮く船になった事で、普段の時空感覚を超越したように見せたかったのかもしれないが、船の中での時間の流れも普通、空間はそのまま存在している。
そのような場所で例えば、人の動きがゆっくりになる。植物の成長がやたらに早いなどの演出があれば、何となく「時間性が変わってるんだなー。」と分かったかもしれない。でもそのような演出はなく、時空に関して特に変化はない。
だからこれも、身体無き野蛮性を体現するために設定したものだろう。緊急状態をこの空船で表現したかったのだろうが、それはあまりにも短絡的すぎないだろうか。そして緊急事態になったので人々は野蛮になりました。人の肉を食べて生き延びました。ちゃんちゃん。という結末はあまりにもお粗末ではないだろうか。
人間の時間というテーマで本来なら、人間本姓×時間性の掛け算にならないといけないのだが、一切掛け算になっていない。

2ー2《最後の子供と母の世界》

ラストシーンで、船は永遠とどこか分からない空間を彷徨い続ける。そこで母と子だけが生きてる。植物栽培が成功して食料もたくさんある。そしてなぜか最後その子供が、母親を女性と見て性交渉をしようとする。キム・ギドクからすれば、その子供も野蛮性があり、母親と交わろうとする。という結論にしたかったのかもしれないが、それもあまりにも短絡的すぎる。もし子供野蛮路線で行くならば、母親と交わろうとするときの現代的なスキンシップの仕方に矛盾が出てしまう。あのスキンシップは社会化された近代人間の行為だからだ。その子供は、空船という特殊な空間で、今日の韓国のスキンシップを覚えた事になる。でも、空船には二人しかいない。しかも母親は日本人だ。この時点で、野蛮性を表現したくとも、社会化された人間を描いている。すなわち、船で生まれた子供にとっては普通の状態でも、母と交わりたくなる。そうなると、わざわざ空船の緊急状態でなくともそのような秘めたる野蛮的行動は行われる事になり、人間が窮地に陥らなくとも野蛮であることを表現してしまっている。すると、序盤の緊急事態で現れる人間の野蛮性が、社会化された普通の空間でも起きてしまう事になり、何のための空船だったのか。そして異様な空間にした意味もほとんどないだろう。どうしたんだキム・ギドク。まるで一貫性がない。

3《まとめ》
キム・ギドクは優秀な映画監督であった。でも今作はあまりにもお粗末だった。どれだけ彼がここから売れたとしても、もう戻ることができないレベルだ。

私は細かいところは気にしない。例えば、「空腹で死ぬよー!」と言っている人の後ろにふさふさの植物が生えている。とか、日本人キャストのセリフが「こんなの!残酷すぎるー!」「それは何を作っているのですか?」などのあまりに説明的で白々しいセリフ、チャングンソクが途中からなぜか日本語になり、その日本語の下手さが炸裂してニュアンスが伝わらない事(これは少し気になった)。そんなことより共鳴したかったのはキム・ギドクが何をどのような思想で描きたかったのか。ということである。
今回の彼の描きたいものに関して理解はできたがあまりに表層的だった。もしかしたら、時間がなくて脚本を途中で出したのか。など考えてみたがやはりどれも、なら〜にしないと。という風に矛盾を重ねてしまう。人間の時間というテーマで、人間が不在だったこと。あまりに薄い人間観がこの映画に影を落としている。

さらば。キム・ギドク。とても寂しい気持ちもあるが才能はいつか枯れるから才能である事も知っている。

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