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Netflix映画「HANG THE DJ」哲学的評論

どうもこんにちはそーりです。前回に続きNetflixのブラックミラー シリーズから『HANG THE DJ』について評論します。

・ブラックミラー シリーズとはNetflixから配信されている近未来者の作品集短いものは40分、長いと120分くらいになる。今回はシーズン4から『HANG THE DJ』を取り上げる。

まずこの短い動画を見て欲しい。

ストーリーの概略

本作の時代背景は近未来の設定で、人々は巨大な壁に囲まれた村に生きている。
その中で人々は運命の人を「コーチャー」というロボットによって選んでもらう。

コーチャーはちょうど手のひらサイズのロボットで、99.8%の確率でマッチ度の高い相手を選ぶ。動画の様にシステムによって、選別された男女が席について、それからはコーチャーが決めた時間(短いと数時間、長いと数年)一緒に同居する。同居する家はかなり広めの快適な空間だ(テラスハウス的な)。

良い相手と数時間のいい感じの時間を過ごすこともあるし、逆に嫌な相手と1年同居しないといけないこともある。運命の相手が見つかるまで、次々といろんな人と永遠とコーチャーの指示に従って同居して別れるを繰り返す。その中でコーチャーは二人の行動からどの様な人がマッチング度が高いかを選別していく。

主人公の男性Aと主人公女性Bの二人は初対面の時互いにビビットくる。でも同居時間が数時間だったのですぐ別れてしまう。村の住民のパーティーで二人は再開するがお互い違うパートナーがいるのであまり深い仲になれない。あまり相性が良くない人との長い同棲生活を繰り返す日々に何かがすり減った感覚になり疲れる主人公女性B。一方、Bが忘れられない主人公男性Aは他のパートナーと同居中、セックスをしながら主人公女性Bを思い浮かべている。

AとBはいつかまた、パートナーに互いが選ばれる日を持ち望む。そしてついに幸運にもその日がやってくる。二人は互いの時間の残りの時間を確認することをやめようと約束する。しかし、Aは彼女が好きな分、あとどれくらい居られるか知りたくなり時間を見てしまう。すると、片方だけが時間を見た場合残りの同居時間が減らされることを知る。始めは5年だったのが最後は数時間になってしまう。

Aは自分が見たせいでもっといられるはずだった残り時間が減ってしまい途方に暮れる。コーチャーにブチ切れるA。時間を元の5年に戻せ!と起こるがコーチャーからの返信は「すべてのことには理由があります」だけだ。

結果約束を破ったことで二人は大喧嘩になり、また別のパートナーとの日々が始まる。そしてある日Bがコーチャーから「運命のパートナーを見つけました。明日この村を出ます。」と連絡がくる。

Bはその人は以前パートナーになったことのある人か?と聞くがコーチャーの返事は「NO」フランクではないことが分かる。

落胆するBであったが、コーチャーから「最後にお別れの挨拶をする人を選ぶことができる」と言われ、即座にAと会いたいという。
翌日Aと合流するとAも運命の相手を見つけたとコーチャーに言われたそうだ。

二人はシステムに違反して、この村から逃亡しようと決める。互いに、システムが見つけた相手よりも自分が今好きな人といたいからだ。
そして二人は高い壁を超えて町の外に出ようとする。壁を超えたその時、二人の頭上には998/1000と数字が表示され二人は蒸発する。

場面が変わって、時は近現代(?)とあるバーでBがマッチングアプリを使っている。近くにいる男性とのマッチ度が99.8%と出ている。その近くにいる男性がAであることは言うまでもない。

システムはすなわちシステムに謀反を起こしてでも一緒にいようと思った確率が1000回中998回以上の相手をユーザーにおすすめしてることがここで分かる。

すなわち、はじめAとBがいた村はシュミレーション仮想空間で実際コンピュータで1000回試されているのだ。私たちの現実空間と並行してAI機能搭載のシュミレーション空間で謀反率99.8%以上の相手を探していて、その結果を元に現実空間の人々にマッチング度を表示している。

AIシステムが出した最も合理的なマッチング条件とは

私が『HANG THE DJ』をなぜ評価するかにおいて幾つかの理由がある。まずは役者陣の上手さ、脚本、次に斬新なアイデア、そしてもっとも重要なのは示唆される哲学だ。近未来の恋愛を描く様な作品はたくさんある。それらの多くは基本的に自由恋愛を放棄して、システムに依存する形をとる。

・システムの性質は「合理性」「確実性」「理性主義」「代替可能性」「偶発性の排除」「非身体性」である。

 実際にこの『HANG THE DJ』の中でAとBは「昔の人は自分で好きな人選んでたんだってー大変すぎるねー」という会話が出てくる。このセリフはAI未来社会における時代精神である。自己責任の不在性&偶発生の不在をよく表した表現である。
ただ上記のセリフはシュミレーション村にいる人であり厳密にリアルにAとBがいる現実世界ではそこまで浸透した価値観だとは思えない。
 すなわち、現実世界の価値観より、シュミレーション世界の方がさらに未来であると考えられる。まとめると以下の様になる。

・2020年私たちが生きる社会
・『HANG THE DJ』上での現実世界2100年くらい?
・『HANG THE DJ』のシュミレーション世界2150年?(そもそも仮想空間なので難しい。)

さて。今回のこの『HANG THE DJ』の新しさ、新しい哲学的示唆は一体何のかについて考察する。
 今回のこのシュミレーション空間、コーチャーを使ったシステムは非常にシステム的である。マッチ度を確かめるために毎回違う人と同居させられ、同じ様な繰り返しのなかで情報をAIに渡す。パートナーとの同居生活の時間はAIの判断で決定され、行動は観察されている。

相性が良い人を計算とロジックで割り出し理想のパートナーを探し当てる。そしてできるだけハズレの無いような人と結ばせる。

このシュミレーション世界の表向きの設定は先ほどの合理性の条件と適応している。

・合理性の条件とシュミレーション世界の照合
「確実性」→できるだけマッチ度の高い相手を見つける
「理性主義」→それを計算と観察と数値で決定する。
「代替可能性」→ダメなら他の人と取り替える
「偶発性の排除」→偶然はなくすべてシステムが決めてる。コーチャーのいう「すべてのことには理由がある」のセリフが象徴的。
「非身体性」→所詮はバーチャル

今まで通りの流れで行けば、これによって運命の相手が決まりハッピーエンドなのだがここからが『HANG THE DJ』が非常に興味深い部分だ。

それは端的に言えば「非合理性」をマッチング度で最も評価する部分だ。その「非合理性」は二人がシステムに従わず”駆け落ち”をすることだ。

すなわちシステムの中で、どうシステムに反抗して人間の恋愛において最も非合理的な行動、愛の盲目さとも言える”駆け落ち”を評価している。

”駆け落ち”の評定しているもの。
・損得勘定の否定
・未来<今(未来性の否定)
・非合理性
・法(システム)の支配からの脱却

この様に、システムや決まり、常識に囚われず、愛のために突っ走れる合理性の否定を”システムによって”評価しているとい演出は天才的だろう。

近未来合理的な世界になればどんどん非理性的な”駆け落ち”は排除される傾向が予想される。今日2020年でも、恋愛からの撤退が先進国を中心に顕著なことからも分かる。それは合理性がライフスタイルまで侵食しているからだ。

しかし『HANG THE DJ』ではそうではない。最も非理性的で法を破るといういイリーガルな行動を愛の強さとしてマッチ度として絶対評価している。

合理的で理性的な世界が、最もカップルのマッチングにとって良いものを最も非理性的な行動と見れる”駆け落ち”としたとは完全に裏をかかれた。

おそらくこの世界では、合理的な条件(価値観、性格の相性、セックスの相性、ものの好みなど)を考えた相手と結ばれるという理性主義的な発想がどこかの時点で否定されたのだと考えられる。

システムは合理的なのでダメだと分かればすぐちがう選択肢探す。そしてそのシステムが見つけ出した最も合理的なカップルの条件はシステムや法を破ってでも”駆け落ち”できる勇気だった。

”駆け落ち”は非合理的なのか?〜最後の理性としての駆け落ち〜”

今回の評論では以下の様に論じている。

システム=合理的
”駆け落ち”=非合理的

しかし、このことにも疑問を持ってみたい。システムが性質として合理的であることは疑いようが無いが、果たして”駆け落ち”は非合理的なのか?という問いに立ち戻りたい。

一見駆け落ちは非合理的に見える。法を破りシステムを破り。明日生きているかも分からない。安全安心便利快適かどうかも分からないそんな世界にちっぽけな今の情熱だけで突っ走るのは子供じみて非合理的で非理性的に感じるかもしれない。

しかし、考えてみて欲しい、もしあなたが他に選択肢がない状況で、あなたの愛する相方に駆け落ちしようと持ち寄られたらどうするだろうか。もしNOと言えば永遠に好きでも無いAIが選んだパートナーといないといけない。
そうなるとあなたは色々考えるだろう。他の選択肢がないかと考えるだろう。しかし、他の選択肢は無い。

この様な場合、YESと言った時本人は果たして非合理的な選択をとっていると言えるだろうか。おそらくNOであろう。そのパートナーといるために最も合理的な選択が”駆け落ち”なのだ。

合理性とはそもそも何にとって合理的であるか。が重要である。駆け落ちの場合、その人とできるだけ一緒にいた気持ちが重要なので、そのために合理的な選択肢として駆け落ちを選んだに過ぎないのだ。すなわち、一見非合理的に見える駆け落ちはその実合理的な判断だったのだ。

これが意味するのは、システムは非合理性を重要視したのではなく、個人の主体性を重要視し、個人が愛する人と一緒にいる事を合理的に考えた結果の理性的な駆け落ちを評価しているのだ。

そうシステムが評定していたのは、人間の合理的判断の根源である”何か”であった。そしてそれは合理的判断を行動に起こすほどの盲目としての最も純粋な愛であった。

哲学者オルテガ の言葉にこんな言葉がある。
「暴力とは誠に最後の理性であった。」私はこの言葉と今回の近しいものを感じる。
暴力とは非理性的に見えるが、すべての選択肢をなくした人間が見せる最後の理性だった。そして駆け落ちとは、合理的な判断の結果、システムを取っ払い明日を忘れ今を生きる最も純粋な感情によって起こされる恋愛における最後の理性であったのだ。そしてそれをシステムで評価するという天才的なシステムの使い方であり脚本だ。

こんないい作品に会えて私は本当によかった。
ぜひあなたの目にこの『HANG THE DJ』がどう映るのかお聞かせ願いたい。

それではそーりの哲学的映画評論でした。
ありがとうございました。

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