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笑える。差異の価値はどこいった?

本来肌の色、性別などの差異は誇るべき対象であって
黒い肌も美しいし、白い肌も、黄色もそれぞれ良さがある。それは映画を撮っていれば、多少芸術をやれば誰でもすぐ分かる。

それらは均一化すべきものじゃない。
その差異を誇る自由を剥奪されている。

差別はいけない。しかし差異は素晴らしい。
差別を消すという理由で差異の現実を盲目にするのは逆剥けが痛いから指ごと切り落とし、さらに大怪我にすることと同じ。後世もっと歪めた世界を残すことになる。

差異=差別∴均一化または言葉の削除は恐ろしい。
この方程式は間違いなく人間の豊かな心を奪うし
豊かな芸術も荒廃させる。
なにより豊かな現実を失わせる。

私は男女差や一切の差異を描写する言葉を禁じる表層的なイデオロギーよりも
男女の差異を深く分析してきた
文学、芸術、哲学の世界に真理があると信じる。

映画で男女差を描かない、男性性、女性性を一切描かないなら役者はいらない。ロボットかCGでいい。そこに身体性と感受性と精神が必要ないからだ。

歴史の差異の文学、芸術、哲学vs現代の流行

どっちが真理に近いか。
いうまでもないだろう。

どれだけ男性と女性の違いに憧れていたか。
男性の私からすれば女性の大きさや男性の理屈っぽい頭にはまるで敵わない大切なものを教えてもらった。
とても嬉しくて、もっと人間の事が好きになった。何度元カノの、言葉では言えないが実在するその性と紐付いた性質に助けられたか。感謝しかない。
この心さえ差別としてされてしまうなら私は死を選ぶ。せめて心だけは最後まで自由でいたい。

誰も取りこぼさないための平等の薄っぺらさ。
笑える。

言葉を奪わい思考という人間の一番の自由を奪っておいて表現の自由。

笑える。

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