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No.3 「死にたいというより、生きていたくない」

こんばんは。
重たい質問ほど真剣なものが多いので
いいんです。ただ重い質問ほど適当に返せないので
そこは分かってくださいね。



「死にたくなるとき、なったときはありますか?
また、そうなったときはどうしていますか。」
について

世の中の一般の人は
人は生きていたくて生きている
と信念しています。

すなわち、生きたいという意思が原因として
結果として生の実体があると。

質問者のあなたも同じように考えていますね。

しかしそれは
生きるということをちゃんと考えていない
信念です。

人間が生きたいと思わなくても
人間が死にたいと思っていても
体は勝手に生命活動を続けます。
そこに人間の意思など介在できないのです。

だから生きていたくないと思いながら
生命活動としての生をただ駆動している人がいます。

彼らは少数派で、生に対してあまり執着がありません。
病名や名前がないので存在を認識されていませんが、
私はそういう存在を生の消極的存在者と呼んでいます。

もしかしたら、質問主さんもその部類かもしれません。
私もそうでした。

先に答えておきます。
まず
私自身、生きていたくて生きたことなんてこの人生において1秒もありません。
体が呼吸をするから生きているに過ぎません。

死にたいと思ったことはよくありますが
よくよく考えたら、クーラーの効いた部屋で忘れるまで寝てたいくらいの気持ちだったのであんまり真剣に取り合ってきませんでした。
もしその気持ちが“本気なら”当然死にます。


でも、死にたいことと
生きていたくないという事は実はとても奥が深いんです。

そもそも死を体験できない私たちは
同時に生きるとということついてまともな見識を持っているのでしょうか。
周囲の人は生命活動としての生きることが当たり前だと思っていますが
おそらく私たちにとっては違うのでしょう。

私は4歳の時に繰り返しの毎日が嫌になって
2階から飛び降りたことがあります。
この日常を止めるには死がその方法だと思っていました。

この生に対する消極的存在について考える時に重要なのは
もう一つの側面、すなわち
世界と私の生の問題です、
私が生きると意思しなくても世界は活動を続けます。

私の曲にfourteenと言う曲があって
その歌詞の中で

「ゆっくり ゆっくり 街が動き出していた 僕はまだ 目を閉じて 何かずっと待ってるよ 待ってよ まだ 俺は 今日を生きるとは言ってない 待ってよ そんな早く行かないで」

と言う歌詞があるのですが
上記のことを詩にしています。

生きる気がなくても世界は時間として現れ続けている。
この気持ち悪さ。
やるって言ってないのに回る世界。
この抵抗不可能な暴力性

人間の生への意思と世界の構造の矛盾を認識するにあたって
次の問題、すなわち、ただ生きるのではなく何かに積極的に生きることへの切望が生まれます。

今、質問者さんはそこに立っているのではないかと思います。

命を削って、魂を削って何かに打ち込める人
私であればそれが映画だったとして、音楽だったとして、哲学だったとして
なんでもいいですが、命を削れることを一生のうちに見つけられる人は稀有です。
またそれを望む人はもっと稀有です。

素敵な生き方だと思います。

ただ、自分の命よりも何かを大切にして打ち込めるのは、現代の時代精神である生命至上主義(生命があることが一番大切)に反します。

私の場合は映画で疲弊し過ぎて死ねたら本望です。こんな幸せな人生はありませんし。愛する人のために自分が死ねたら本望です。
それが国家のためであろと、なんのためであろうと、価値のために命を捧げ続けて、その生を費やし、生命(生物的に生きているということ)を否定するとき
初めて人間は他の動物から区別されて、人間になるのです。
これは文明論という哲学のジャンルでは常識です。
中世では宗教がその役割を担っていた側面があります。

私は魂をかけて何かに打ち込めるという
才能を持った人だと思ってます。
そして、打ち込みたい対象と出会えることもかなりの努力を要します。
しかしそれは現世の社会的な成功を意味するものではありません。

しかも、そんな人は先ほど述べたように
<常識>としての生命至上主義と反するので煙たがられるのが普通です。

質問者はおそらく文体からして女性だと思いますが
この命を捧げるある種の”バカさ”は男性の生き方と良くマッチしていると思います。
女性だからできないわけではありませんが、女性が死んだら歴史が終わります。
女性は歴史そのものですから。だから女性には勘というブレーキが強く効いています。

男性は外で戦って家にイノシシでも持って帰る。生物的にそういう生き物ですから、それに付随した命を削って何かを追求するという事は男のバカさだと思ってます。

だから、質問者に必要なのは
”バカさ”なのかもしれません。

バカはいいです。
だってバカしたってなかなか死なないのですから。
俗にいうバカをしまくってきた私が言うのですから間違いありません。

生きたくないし、行きたくない
風景に溶けてしまいたい。
意識からあまりに遠く、彼岸の彼方になってしまいたい。

そう思う心は私は憧憬だと思っています。
なんだか退屈な世界は、実は過去世にあなたが体験した、人生をかけて何かに打ち込んだ魂の記憶への”今”のあなたの憧憬だと思います。
すなわち、あなたは思い出しているんじゃないでしょうか。
知っているから、懐かしみ、憧れられるんです。

そして、その憧れはセンチメンタルな気分
哀愁的な気分を彷彿させます。

だから、センチメンタルな人は思い出す事があるひとです。
思い出すということは、今それが”足りない”から思い出すんです。

故にあなたは足りてない「それ」=積極的に何かに打ち込む生
を追いかける必要はあると思います。

ならばすることは一つ。
バカになって、積極的な生を生き続けて
生を否定する形で生を体感できる瞬間まで走り続けることですね。

バカになることとは死ぬほど考え続けて
本気で生きるということです。

逆は「適当」です。
気をつけて。

いつでも相手になります。

がんばってね。

真田






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