DO哲学とは?〜Learn哲学との違い〜

この記事はパンクロッカー/希哲学者/映画監督など様々な方面で活躍している人が書いてます。プロフィールはこちらhttps://www.souri.site/

みなさんこんにちはSO -RIです。今日は自分の代名詞でもあるDO哲学について書こうと思います。

哲学の本を中学から読み漁り始めて今年で15年くらい経ちます。
難解で考えに全く同意できない哲学者から、まさに!まさに!その通りだ!と感動させられた哲学者までたくさんの哲学者と呼ばれる人と出会い、今日の私の思想に影響を与えてもらっています。
特にプラトン、アリストテレス、ショーペンハウアー、ニーチェ、デイビット・ヒューム、ヘーゲル、フッサール、サルトル、中島義道、ジョージ・レイコフなど名前を挙げだすとキリがありません。
哲学の日々はとても楽しく、彼女より哲学が好きな時期もありました(それで寂しそうな顔をされたり、本ばっかり読んでんじゃねーよと怒られたこともあります)。

さてそんな中で数年前から思うことがあります。というより、これをちゃんと考えないと哲学自体が誤解されっぱなしだなーと思うことがあります。

それはDO哲学とLearn哲学の違いです。そして一般の方にこの二つがごっちゃになって認識されてしまっている問題です。そして私が本記事で読者のみなさんに伝えたいのはDO哲学の方です。

【哲学の起源】

哲学とはそもそもその起源がソクラテスという古代ギリシャの哲学者だといわれます。諸説ありますが、とりあえずここではソクラテスがその起源であるとします。

ソクラテスは相当な変わり者で今日で言えば渋谷ハチ公前で道ゆく人に「善とは何かね?」「正義とは何かね?」と声をかけまくり最終的に、反感を買い死刑になってしまった人です。ただ彼は死刑を逃れられましたがそれを自身の哲学の中で受け入れ死刑を受けた人でもあります。

ソクラテスのその一体一の対話の中で真理を求めたその”あり方自体”が哲学の起源です。その知を求める姿は、明治時代に日本に受け継がれて「希哲学」として日本に紹介されます。

しかしいつの間にか希哲学の”希”が抜け落ちて哲学になりました。そもそも哲学はその語源がフィロソフィアと言い、知識を愛するという意味が語源です。自分の問いの答えを知るために、知を求める。それがそもそものフィロソフィアとしての希哲学です。

【Learn哲学】

今日の大学の授業でもそうですが、基本的に哲学は〜が〜と言った。古代ギリシャの哲学は〜中世は〜というように、哲学を習っているのがほとんどです。これを私はLearn哲学と呼んでいます。すなわち暗記です。だから学校の勉強と殆ど変わりません。
実際に大人になって哲学のウンチクを話す人にはたくさん出会います。彼らは確かにLearn哲学をしています。しかしそれはただの知識です。
一般的に哲学が難しいもの、お勉強として世間に理解されているのはこのようなLearn哲学のイメージが先行して伝わっているからです。ここに私は問題意識を持っています。
しかし、実際に自分の経験の中から出た問いを考えて、それゆえに知識を求め葛藤している人は殆ど出会ったことがありません。そしてこれがDO哲学です。哲学に触れる人の99%は大学で哲学の教授を目指すわけではありませんから重要なのはこのDO哲学になります。

DO哲学は誰にでもできます。小学生から、中卒の方でも、高校生でも、授業をサボりがちな大学生でも、忙しい社会人でも、退職したおじいちゃんでもおばあちゃんでも。

一方、Learn哲学はまず習うところがないとできません。Learn哲学で求められることはその情報の確かさなので質の高いLearn哲学をしようとすると、難しい本を読むか大学に通うしかありません。

【DO哲学とタイミング】

ここからはDO哲学の話をします。
巷に溢れる哲学講義や哲学系のイベントはほとんどがLearn哲学の場所になっています。DO哲学の場所というのは意外と少ないものです。哲学対話などのイベントがこれに入ります。
そもそも自分の経験の中から生まれる問い、例えば「仕事ってなんだろう?」「家族ってなんだろう?」「愛ってなんだろう?」という問いそのものが自分の人生の中で生まれない限りDO哲学とはそもそもできないものです。ですので

DO哲学にはタイミングがあります。それはそれぞれの人生のタイミングで、自分の問いが立つタイミングです。

だから私は正直、DO哲学の必要のない人生もあると思っています。今世の私は「なぜ?何?ちゃん」だったのでDO哲学の人生でしたが、来世は分かりません。
哲学はすべきものではなく、勝手に個人の中の問いを考えていたら行き着く場所だと考えています。
中学生の頃、世界とは何か。人間とは何か。ということが分からないと先に進めない性格だったので考えまくってたら、そんなことを考えているスペシャリストの集団がいてその彼らが哲学者と呼ばれていたからそこに入っていっただけで、もともと哲学をしようなんて微塵も考えていませんでした。

他人の問いに乗っかかって考えることも良いと思いますが、人生には他人には理解できない”自分の問い”というものがあります。それは十人十色で他人と被る時もあれば、自分だけのものもあります。

DO哲学をする人は自然と、問いを追いかけるので哲学者の書いた本や同じような問いを抱えている人たちへと辿り付くことがあります。

またそれが宗教に行くこともあります。宗教は納得しやすいストーリーと答えを教えてくれます。また人智を超えたものからの教えであるがゆえに疑いにくいです。
ここが哲学と宗教の違いです。

DO哲学とは自分の知っている限りの知識を総動員して、その問いに挑みかかります。分からないことが前提で、自分がその問いを解決しないと前に進めない。そんな時にDO哲学パワーの動機は最高潮に達します。そしてDO哲学はいつも言葉を理性によって扱い真理を目指しますので、ロジック勝負になります。

よってDO哲学とは内側から溢れ出す自分の問いに、知識とロジックを使って挑む”挑戦”であります。DO哲学のスタートは自分の人生の中でその問いが立った時です。誰かから借りてきた問いではなく。自分の奥底から出てくるそのぼんやりとした”なぜ?”から始まるのです。

let's DO哲学。その時がきたら是非この記事のことを思い出してもらえれば幸いです。

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