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止まらないイマジネーション困った。

曲を作るということ~アルバム制作日記~

アルバム制作をしようと決意した10か月前。当初今回のアルバムは6曲くらいのボリューム感をイメージしていた。しかしもっぱら予想は当たらず6曲では収まらず9曲になりそうな予感が飲み屋で飲んでいる時
に急に雷のように落ちてきた。結果9曲入りの音源になることになったが、嫌な予感もあった。また増えそうな予感だ。予想は的中して、どこからともなく言葉とリズムができかけており、どうやら今回の音源は全部で12月分曲入りになりそうだ。しかし、それも変わるかもしれないので暫定ではあるが。
今回新しくアルバムに加わる三曲は

1Foever2月
2狂って笑って
3DISHUMANRIGHTS
の三曲だ。

いつも曲ができすぎてしまう。それを選別してアルバムという一軍に残るのは少数。曲が出来過ぎることにはいつも、いい面と悪い面がある。
いい面は曲が書けないというミュージシャン的な悩みに陥ることがないことと、常に自分を更新し続けることができることだ。自分を前へ前へ前へ大量のインプット(本、映画、漫画、自分の変化を哲学することなど)を通じてそれらを燃料にできる。大量に曲にしてアウトプットする以上、私の中で燃料が腐ることはない。
一方悪い点は、集中力が散漫になり、イライラすることだ。イライラなんて一番したくない。曲はどこからともなく私の生活のタイミングは無視で降りてくる、会社の会議中や、友達との会話、帰り道、勝手に侵入してくるので集中力が散漫になることがある。一言でいうと「うるさい」。特に一人でリラックスしたいときに、今日は映画館でポップコーン食べながらコーラ飲みながら映画をみるぞー!とウキウキして映画館に入り、映画に集中しているとどこからともなくまた曲がやってくる。そうなると映画に集中できない。そしてイライラしてしまうのだ。携帯のボイスメモにすぐメモりたいけれど映画館の中は携帯禁止なのでわざわざ外に出ないといけない。隣の人に「すいません」と言いながら前を通らせてもらってドアの前でメモってまた「すいません」と言いながらその人の前を通って自分の席に着く。映画はシーンが変わっていて、数分抜けているだけで「全部見た」とは言えなくなる。ならもう一度全部見直すために別日にくるか、でもまたその時に曲が降りてきたらまた同じことになってしまう。そんなことを考えているが目の前の映画はどんどん進んでいく。思考を止めて映画に集中しようとすればするほど集中できないというパラドックスに迷い込んでしまう。
これは曲が出来過ぎる代償としてとても痛い。集中力にはいろんなタイプがあるが私の場合確実に拡散型だ。薄っぺらい知識だとADHDと診断されてもおかしくないのだ。ただ、現代の発達障害の考えでは、ある種の特徴はスペクトラム(度合い)としてとらえられるので、みんなそれなりにあることになる。現実的で良い考えだ。それはよして、もうこの自分の本性に従って生きていくしかないので良いのだが。これ以上曲が増えてしまうとアルバムがはちきれてしまう。太り過ぎてTシャツが破れてしまうように、キャパオーバーになることがある。
では次回に持ち込せばいいじゃないかと言われるが、熱々ほやほやの料理を出すからよいのであって、冷凍してあとで解凍して出すようでは、作品と自分の距離感が狂ってしまう。お前だれ?となってしまう。
去年21曲入りのアルバムを出したが、その時も「分けるという発想はないの?」と多くの人に言われたけど彼らは商業的な頭になってしまっている。降りてきたものは自分が可能なら熱いうちに出した方がいい。
このように曲ができすぎることは、同時にいろんなアイデアを思いつくので、私は結果的に、バンド、映画音楽,脚本、執筆、哲学、心理学などの学問、詩、人間集会、教育、などいろんなワークをしている。普通の人ならパンクバンドやっていて哲学をやっているということが真逆すぎて繋がらないとおもうが、そのようなことを可能にするのもこの、永遠に湧き出すイマジネーションなのだ。このイマジネーションが常に私の創造の原動力である。そして知的好奇心がさらにそれを借り立てる。しかし、そのイマジネーションがどこから来るのか?と言われるとやはり、あの存在にしか答えはない。

イマジネーションにあふれた世界は、「差」と「変化」に敏感になる。小さな差をたくさん見つけられるようになる。なぜなら、いろんなことを考えているといろんな角度で物事を見られるようになるからだ。芸術をやっている人が哲学を見ると、芸術的に哲学が分析できて新しい視点が生まれる。スポーツ好きがEスポーツを語るとスポーツやっている人ならではの視点が生まれる。このように、いろんなことを考えたり実際にしていると、普通とは違う見方で世界が見えるようになる。すると小さな「変化」に敏感になる。
みなが気づかない部分は実はよく変化していることがある。変化していないと思われるものは実は大きく変化していることで成り立っていることがほとんどだからだ。でも多くの人は気づけないのは、その変化をとらえる視点が固定されているからだ。同じ位置からのカメラでは世界が動いていてもその風景さえ変わらなければ、変化に気づかないのと同じだ。逆を言えばするいろんなことを考える人は世界を切り取る視点が多いので、みなが見落としていたり、慣れてしまって気づかない部分の「差」に気づけるようにもなる。
そしてそのような変化や小さな差に気づける人は自分にもその視点を向ける。だからいろんなことをよく考える人は自分に対しての知識がおおい。自分のことを理解している人はあたまがいい。
頭の良さは偏差値で決まるのではなく、自分を知っているかどうかで決まるとここに宣言したい。なぜなら自分を知ろうとすれば必然的に人間とは何かという問いも考えなければならないからだ。その過程では教科書では決して教えてくれない大切な教養と哲学を深めることができるのだ。
色んな事を考える人は、いろんなことに気づける、そして自分という対象にもそれを適応するので、自分に対する知識が増える、自分のことがよくわかる。そんな人が本当に頭がいい人なのだ。

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