わたしにとってお笑いはひとつのコンテンツから人生になってしまった

わたしにとってM-1はお祭りだった。
今年は誰が出るのかなと決勝進出者の発表を毎年楽しみに待っていて、当日は録画しながらリアルタイムで観て楽しむのが恒例だった。
今年のM-1がわたしにとって今までと違うのは、わたしがただのお笑い好きから、お笑いの深みにどっぷりはまったファンになっていたことだ。1回戦から結果速報を見たり、予選をこの目で観に行ったり、決勝進出者のほとんどを知っていて、生で見たことがあって、なんなら直前の調整まで見続けてきたのも初めてだった。わたしは今までドラマの最終回だけを見ていたようなものだった。面白いドラマは最終回だけ見ても面白いんだけどね。
もっと個人的なことで言えば、今年初めてお笑いだけで繋がった友達ができて、一緒に盛り上がれて、わたし以上に熱狂している人を初めて生で見た。

わたしにとってM-1は冬の風物詩だった。
今年予選から見てきたわたしにとって、M-1は夏であり、秋であり、冬だった。
今年わたしはクリスマスの雰囲気を少しも感じられていない。それがM-1のせいかどうかはわからない。少なくとも去年のわたしとの大きな違いは、ここまでお笑いが好きかどうか。それが1番なのだ。クリスマスを楽しめるかどうかがわたしにとってどういうレベルのことかはわたし以外の誰にもわかり得ない思うけど、これだけお祭り好きでイベント好きなわたしが、ひとりクリスマスでも本気のブッシュドノエル焼いたりできるわたしが、クリスマスの準備を何もしないということは異常事態だと勝手に思ってる。わたしにとってもう季節の移り変わりなんてものはお笑いという趣味の前には些末なことだった。

わたしにとってお笑いがM-1だった。
昔から純粋に漫才が面白い人達がなかなかテレビに出られないことを悔しく思っていた。キャラがあって人柄にツッコミどころがあって一芸があって、そんなきっかけがないと漫才が面白いだけじゃテレビに出られない。売れない。そう思っていた。誤解しないでほしいのは別にそういうきっかけで世に出た人を責めるつもりもないし、少しも悪いと思わない。やりたいことをやるのに人にとやかく言われる筋合いはないし、もしそれが手段だとしても、それだけ本気ならわたしは応援したいと思う。
ただわたしは、ただまっすぐに漫才を突き詰めた、着実に地道にコツコツとネタを磨き上げる、そんな人たちのためにM-1があるんだと思っていた。今になって思う。思い知った。M-1で勝つためには、ネタがただ面白いとかそんな単純なことじゃない。今まで、「ネタ」というのはテーマと同義くらいにしか思っていなかった。劇場に通っていると、同じ「ネタ」を何回も見る。でも、全てのネタが同じじゃなかった。何度も見れば、見るほどにわかる。ひとつのセリフが、タイミングが、言い方が違う。ひとくちにネタと言っても、映画や演劇と同じように、ほんの些細な表現のチョイスが、本質に少しずつ影響してくる。しかも本番はたった1度のチャンスしかない。そんなひとつひとつの無限の組み合わせを、たった1度の本番に向けて決める。そんなの、面白いネタもってるとかそんなレベルの話じゃなかった。誰もがみんな、ほんのひと磨きで差が出るようなギリギリのところで、各々のネタを磨き上げてきた。そんな気がした。

M-1はピアノの発表会と似ている。家で何度も何度も練習する。当然だ。本番は発表会なのだから、これまで何度練習で完璧な演奏をしようと、発表会での演奏が全てなのだ。周りもみんな上手いから、少しのミスが目立つ。毎日練習を見てきたお母さんは特にミスタッチには敏感だ。いつもの練習と違うところは、お母さんにだけは確実にバレる。わたしもピアノを習っていたけど練習が嫌いでさぼりグセがあったので、練習の時は曲を短く編曲して弾いているから発表会当日にこんな長かったのとよく言われた。それに気付くのは母親だけで、先生も友達も上手だねと褒めてくれた。バンドでステージに立った時も、ちょっとしたミスをうまく繕って顔に出さなくても、練習からしっかり見てくれてダメ出しをしてくれた先輩にはきっとミスがバレていたと思う。それでも原曲を知らなくてライブだけを見て判断する観客はすごくよかったと褒めてくれた。
人の評価を評価するのは難しい。練習から見てきた人が正しい評価をできるかというとそうでもない。初めて観る人の純粋な気持ちでの評価が正しいかと言われるとそうとも限らない。
わたし自身、わたしの評価が正しいかどうかなんて、正直なところ正しくはないと絶対に言い切れるほど。それでもなお納得できる評価ではあってほしいと思うのが人間だ。

一方で、心の底からM-1に熱狂できたかというと、複雑なところがある。
今年初めて心の底から優勝を願って応援したいと思える人ができました。この人たちの優勝が見たいと思った。今までだって決勝進出者をみて、この中だったら、この人達が優勝したらいいな、と思った。でも、それはあくまでもM-1のひとつの楽しみ方であって、お笑いを楽しむ中でのM-1の存在という意味で、わたしの中での位置づけが全く違っていた。言ったらわたしはテレビでしか見たことないスポーツでW杯で特に盛り上がるファンくらいだったのが、選手の育成からグラウンドで見守るファンになっていた。
M-1がわたしにとってもひとつの夢になった。
誰かの夢がわたしの夢になるということは、その誰かの存在がわたしにとってそれだけ重大ということだ。それだけで幸せなことだと思う。
残念なことに今年は夢半ばで終わってしまったので、わたしにとってのM-1もそこでだいたい終わってしまった。
とはいえ、わたしは彼らの次にお笑いが好きなので、もちろんそれからもニュースはチェックしていたし、結果に一喜一憂したりした。彼らがきっかけで足を運ぶようになった劇場から、たくさんのコンビが決勝に進んだ。こんなに嬉しいことはなかった。今までは決勝この人達がきたんだ、と思っていたけど、今年はこの人達が行ったんだ、と思った。これは、今日言うことの中で1番大事なことかもしれない。がんばってきたのを見てきたからこそ、すごくすごく嬉しかった。本当は泣いたりしたかったけど、うれしくてうれしくて、それでも十分です。決勝当日も心の底から楽しんだ。いっぱい笑った。お笑いのおかげで出会えた友達と、美味しいお酒を飲みながら、こんなにも共感しながら歓声と拍手を交えて観たのはM-1が始まってから初めてだった。

今年M-1は本当にレベルが高かった。今までのレベルが低かったとかそういうことじゃ決してないけど、面白くない組が1組もいなかった。何が起きてもおかしくなかった。
1組目からあんなに高得点が出ると思わなかったし、わたしの大好きな人達の大好きなネタを、普段劇場に行くことのないみんなに見てもらえて嬉しかった。緊張して普段の力が出せてない人も、テレビの前でただただがんばれって思えた。とにかく面白かったし、感動したし、納得もした。全員そこにいることが確かにって思えた。点数も結果的に今年はかなりインフレしていたけど、間違いなかった。優勝にも納得した。苦労人っていう背景とか、芸人仲間や後輩が応援してるとか、そういうの抜きにしても、心の底から面白かった。面白いって思う人が優勝して純粋に嬉しかった。圧倒的でもあったし、誰が勝ってもおかしくなかった。よくわからないけど。文句なしの優勝だった。お笑いファンとしてはそれも嬉しかった。

わたしにとってM-1は遠征だった。これは、今までの「だった」と違う。過去形じゃない。今回初めてわかったこと。
劇場で観る生のお笑いが、わたしにとって本物だった。昨日劇場でM-1を終えた人達を拍手で迎えた時、おかえり、という気持ちになった。今までにはなかった感情だった。わたしたちはずっとここ劇場で待っていて、M-1へと送り出してきた。少しでも追い風になればと背中を押してきた。こっちのエゴだけど。出囃子が鳴って、迎えたときの拍手はお疲れ様という意味だった。みんなはどうかわからないけど。大きな大きな拍手に包まれていた。いつもの狭い劇場より余計に拍手してきた。わたし以外の拍手に掻き消されても少しでも聞こえるといいなと思って。狭い劇場でも一生懸命拍手するけどね。2本目をできなかった人達のネタを観て、もしかしたら、これをやるんだったのかも、と思って苦しくなったりはしたけど、やっぱり面白かった。単純に。最後は笑わせてもらえる。間違いなく。たぶんこれは想像だけど、どのファンも自分の応援してるコンビが優勝しなかったことを責めたりしないし、自分の応援しているコンビ以外が優勝してもおめでとうって拍手を贈っているはず。本人たちも、きっとそうするだろうから。違ってたらごめんね。とにかく昨日はM-1からみんなが戻ってきた。そう思った。

わたしにとってのお笑いは、M-1ではなくなった。
今の時代テレビに出ることが売れることと同義ではなくなったし、王道ではあるかもしれないけど絶対ではなくなった。テレビに出て誰にでも知られる存在でなくても、チケットが取れないくらい売れているし、熱狂的なファンがいる。それに今はYouTubeだってある。M-1で優勝することやテレビに出ることがゴールじゃなくなった。少なくともわたしはそう思ってる。わたしにとって必要なのは、これからもずっと、面白い漫才を観られることだ。面白い漫才師が舞台に立ってくれることだ。面白い漫才師がこれからも漫才をして行こうって思える世の中であることだ。わたしはもう正統派漫才師が賞レースでしか評価されない世の中を嘆かなくて良くなった。

お笑いは人生だった。
わたしが今年1年見てきたのは5分間の漫才でも、1時間のコーナーでもない。何人もの人間の生き方だった。その人の人となりと思考と常識と、お笑いって人の人生を見させてもらうってことだと思う。この話、長くなりそうだからこのへんでやめとこ。

とにかく、こんなにM-1を楽しんだ年は未だかつてなかった。正直いまも楽しんでいる。こんなに余韻を残したM-1がいまだかつてあっただろうか。いや、それはわたしがその渦中にいなかったからだ思うけど。いまはわりと渦中なのだ。これだけ初出場の若手がいっぱい出てきて、純粋に面白くて、コンテンツとしても盛り上がって、世間からの反響があって。これで来年からも優勝目指して頑張る若手がいっぱい出てくると思うと嬉しい。
今わたしがすることといえば、M-1で世間的に注目を浴びた私の好きな人たちをアシストするだけだ。わたしにとってM-1は目標でもゴールでもない。やっぱりお祭りなのだった。来年だってそうだ。来年はもっと楽しんでやろうと思う。ただひとつだけ、もしも好きな人が神輿のてっぺんでノリノリだったら嬉しいなって。ただそれだけのこと。評価がどうとか売れるとか売れないとかウケるとか、ウケるのは大事だけどね、結果とかいろいろそんなことはどうでもいい。とにかく好きな人達が舞台の真ん中で(時々隅っこにも行ったりしながら)楽しそうにしていて、あわよくば泣いて笑って喜ぶところを、一緒に泣いて笑って喜びたい。おめでとうって言いたい。ただそれだけです。
ありがとうございました。おめでとう。お疲れ様でした。

今年ももうすぐ終わるけど、来年も健やかに笑っていてくれたら幸いです。いつまでもやりたいことだけやっていてほしい。あわよくばそれを見届けさせてほしいし、必要なときは応援させてほしい。許可くれなくても。全員許可でも。
死ぬまでコマンダンテのファンやらせていただきます。
今年一年お疲れ様でした。まだ途中だけど。これからも2日に1回ペースでライブあるけど。もういいかな、もういいです。どうもありがとうございました。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?