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Mountain Trail Running  ー山が教えてくれたことー

第16章 トレラン

 「高尾行くか」二〇一九年初夏、チューニング中の望月を誘った。この頃、望月は私の人体実験を進捗させる主力の精鋭セラピストチームMMNの一人に育っていた。久しぶりに人材育成の楽しさを私に思い出させてくれた一人だ。
 三三歳になる望月真一は私が二〇一六年八月にミオンパシーサロンUROOM一号店を調布市仙川町に開業した時のオープニングスタッフだ。二〇一一年一〇月、私が運営していた社会人サッカークラブに選手の友人に連れられてトライアル参加して以来知り合ってから既に八年が経つ。サッカークラブでは監督と一選手という関係だったので、あまり接点もなく当時の記憶がほとんどない。唯一、長身長髪で無口無愛想という得体の知れない巨人というイメージが残っているのだが、まさかこうして一緒にビジネスをすることになるとは当時は夢にも思っていなかった。
 当時は不動産営業をしていたが東京の生活に疲れ果て、二〇一四年の夏に実家の静岡県富士市に帰って行った。それからしばらく音信不通だったがその年の一二月に静岡県御殿場市で行われたサッカー大会に参加した際に自宅が近くだったので顔を出してくれた。
 「実家から日雇いの仕事に行ってます。サッカーはしてませんが、フットサルをたまにやってます。それでちょっと腰が痛くて明日整体に行く予定です。」
 「あっそうなの、なんか大変そうだな。仕事はよく分からないけど、腰は治せるかもしれないぞ笑。」
 そう言って一時間ほど施術を施した。寒空の下、施術ベッドでもない中での簡易的な施術で効果が出るか微妙だったが、ひたすら大腰筋だけを緩めた。
 「ゲーム前だし、腰痛の原因となる筋肉だけ少し触っておいたわ。」そう伝えて立ち上がってもらった望月の表情が変わった。あまり顔に出さないタイプだったので余程驚いたのだろう。
 「何ですかこれ?全然痛くないっす!」 
 これが望月とミオンパシー整体術の出会いになった。それからしばらく音信不通になっていたが二〇一五年の秋に突然メッセージが届いた。
 「あの整体を習いたいんですがどうしたらいいですか?」
 「また東京出てくるのか?」
 「このまま静岡にいても何も変わらないのでチャレンジしたいと思ってます。」これまではっきりとした意思表示をサッカーですら聞いたことがなかったので、その本気度はすぐに理解できた。
 「整体塾の先生はすぐに紹介できるけど、おれにもプランがあるからちょっと考えさせてくれ。」白金台に移っていた、いぎあ☆すてーしょんに通うには少し距離があったので、自宅の近所に自分も利用できる整体サロンを開こうかと検討し始めていた時期だった。
 早速翌日、鮎川に連絡を取った。望月というセラピスト志望がいること。整体塾を卒業後の進路の可能性などについてやり取りした。いぎあ☆すてーしょんし白金台にはセラピストが一〇人ほどおり人材が飽和状態だということが分かった。「やっぱり自分で店を出すか。」望月からの相談は私にとっても渡りに船だった。人的投資をするには、まだ望月の人となりへの理解は不十分だった。
 「一度、東京で話をしよう。」望月が自宅に訪れたのは二〇一五年一一月、相変わらず無口で何を考えているのか分からない男だった。
 「何をどうすればいいとかは分からないです。整体が本当にやりたいのかも分かりません。ただ、このままではダメだと思ってます。」三〇歳を目前に控え、定職にもつかずにフラフラしている自分の人生に、全く未来が見えない若者が目の前にいた。「今の世の中、こういうやつらが多いんだろうな。」
 「おれの下で働くのはマジできついぞ。おれもやるからには本気だから求めるところは厳しく求める。その代わり一所懸命期待に応えようとしているやつは、たとえできが悪くても絶対見捨てない。おれはそういう価値観で生きてきた。」
 一晩ともに過ごし、セラピストへの転身を本気で考えているのは伝わってきた。若者の成功を手助けするなどという義心はなかったが、自分を頼りにしてくれた男一人くらいは面倒見れるかな。そんな経緯で出店の決意を固めた。

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 翌年すぐに鮎川が主催する整体塾が始まった。私が出店を予定しいたミオンパシーサロンの一号店のオープ二ングスタッフとして山内と望月を派遣した。四ヶ月でカリキュラムが終了したが、私のサロンはまだ出店準備中だったので、五月中旬から二人はひとまずいぎあ☆すてーしょん白金台で新人セラピストとしてデビューした。白金台店はセラピストが飽和状態だったので新規の予約が新人の二人に回ってくることもなく悶々とした日々を送っていた。そんな二人を尻目に私は出店を急いだ。
 そして、ついに八月六日、一号店となるミオンパシーサロンUROOM調布成城がオープンした。多店舗展開など全く視野に入れていない個店経営なので、事業計画を練るなど緻密な準備をしてこなかったが、二人のセラピストの予約枠を埋める程度の集客は可能と考えていた。近所に住む知人や友人などを招待し、オープン初月から予約は順調に埋まっていった。インターネットマーケティングを生業にしていた杵柄で、WEB集客も好調だった。
 どんどん予約が埋まる一方で、新人二人の施術は試行錯誤の連続だった。鮎川に依頼していたサポートの一つが、いぎあ☆すてーしょん代官山時代から私をずっと担当していた辻村裕美子というベテランの女性セラピストの派遣だった。彼女が週二回、私のサロンでシフトを開けてくれた。新人二人の世話役という格好だ。彼女のおかげで何とか整体サロンの体面を保つことができたが、二人を一人前のセラピストへ育成することが急務だった。山内は私より一回り年長で人生経験も豊富、飲み込みも早く多くの指示にも何とかこなそうという意思が見られた。
 その点、望月は甘かった。予想はしていたが感情の浮き沈み、浮くことはめったにないので沈むと如実にサロンの空気を悪化させた。それでも施術に自信がつけばと終業後の練習の機会を増やした。閉店の二二時頃にサロンに顔を出し、それから深夜二時まで私の体を練習台にして施術を続けた。望月は疲労で、私は眠気で、生産性の低さは明らかだったが業界経験のない私にはそれくらいしか育成のサポートができなかった。この年の秋は一に施術、二に施術、三、四も施術だった。
 年が明け三月には石川直宏との出会いなどサロンにはビッグニュースが増えてきた。もはや新人の二人にとって、あれこれ悩んでいる暇はなかった。施術とビジネススキルとマインドを同時にキャッチアップしながら刺激的な日々が過ぎていった。そして、翌年には会社統合でメンバーが一気に増えていき、望月は山内同様にカンパニーの成長を支えるマネジャーの一人になっていた。
 二年経ってビジネスパーソンとしては格好が付くようになった。一方、施術の腕はまだまだ一人前と言えるレベルには達していなかった。覚えの早い者はきっかけを摑むと一段階ずつ階段を登るように上達していくが、望月は停滞期が長かった。施術が思い通りにできない悩みを抱えながら日々の施術に向き合わなければならない。ミオンパシー整体術は素人でもそれなりに結果が出る施術法というのが最も優れた利点だ。だから、顧客満足度は料金に見合うものだったであろう証拠にリピート率は高かった。それでも高い品質を求める私の基準には達していなかったので、停滞期が長くなかなか上達しない望月の施術については一考する必要があった。そこで、二〇一八年夏前から鮎川による特訓を始めた。熟練者の施術を受けて熟練者に施術を受けてもらう。時間は割かれるがこのシンプルなやり取りが一番効果的だった。その場で疑問をぶつけて触診の感覚を合わせていく。そして、秋から私を実験台とするチューニング研究に望月を加えた。鮎川が方針を立てて望月に指示を出してチューニングを進捗させる。ランニングを始めて体のケアを増やす必要があった私たちにとっても好都合だった。
 施術の腕が急に上達したのは二〇一九年に入って、施術経験が二五〇〇時間を超えたあたりからだった。何がきっかけだったかは本人にしか分からないが、私に続いて望月自身もランニングを始めて以来全てが好循環に入ったのは間違いないだろう。代謝回路が最適化され頭の冴えや指先の感覚など体の隅々まで神経が行き届く。体が脳の指示通りに動けば理想的なアプローチができる。無駄が減り感度も高くなっていく。あたかもセンスが磨かれたように。ランニングによって体幹が鍛えられ安定感が増したことも物理的な面でプラスに作用しているようだった。
 五月にはチューニング研究の中心を鮎川からMMNにシフトしていった。望月や西尾は私と同様にランニングが習慣化してからは、体の動きや仕組みなど、そのメカニズムについての理解者かつ真の探求者になっていた。机上の理論にも利点はあるが実践以上の発見は望めないだろう。私とともにランニングデータを分析しチューニングの精度を高める。これまでの概念が大きく変容し、メソッドとして昇華していくプロセスがはっきり見えていた。この後、ランニング能力も高まっていた二人をパートナーに副えて山に入っていくことになるのだが、気付くと私はいつの間にか望月のチューニングに全幅の信頼をおくようになっていた。

 山に入る。灼熱のロードは走るには過酷すぎる。真夏の暑さから逃れたいという衝動もあったが、真のランニングマンになるための道程には自然との調和が不可欠だと感じていた。
 「ナチュラルトレーニングは全てを与えてくれる。体型、スピート、強さ、しなやかさ、持久力、あふれんばかりの健康など、人間が持ちうる身体上の強みを一つ残らず。」
あの「NATURAL BORN HEROES 人類が失った”野生”のスキルをめぐる冒険」の一節が頭の片隅に鮮明に残っていた。
 「高尾ならサッカーの先輩に連れられて一度走ったことがあるので案内できますよ。」
 「じゃあ、もっちのシフトが休みの来週の木曜日な。とりあえずトレラン用のシューズ買うわ笑。」
 二〇一九年七月、初めて山を走った。ロードを2,200km以上走り、暑さとともにややマンネリ気味だったランニングに変化を入れたかった時期だったので、トレラン(トレイルランニングの略)は絶好の新しい”遊び”だった。これまでキャンプなどアウトドアに接点があったわけではないので、最初は山と言われてもピンとこなかった。ただ、情報サイトで、”ランナーは夏の暑さを避けて山を走って走力をつける”という記事を目にしていたので、「なるほど、これが夏の暑さか。夜も暑くてロードは無理だな…」と思っていた私は、すっかりトレランへ気持ちが傾いていた。
 トレラン初心者にとって入門編とも言える東京都八王子にある高尾山。自宅から車で四〇分とロケーションも抜群だった。早朝、Lab前で望月をピックアップして高尾に向かった。京王高尾線高尾山口駅にある温泉「極楽湯」の駐車場に車を停めて登山口へ向かった。早朝でもまだ路面は暑かったが、林道を抜けて六号路の登山口に入ると、空気が冷んやりと一変するのが分かった。新調したトレラン用のシューズは、ロードを走る時の軽やかなシューズとまるで違い、ただただ重たく感じて仕方なかった。
 初めての山道は、観光客や登山客が多い高尾山ということもあり、とても整備されており走りやすく、勾配も緩やかだった。私たちは標高599mの高尾山3.5kmを三〇分かけて意気揚々と駆け上がった。
 「結構、速いですよ。」望月が淡々と話す。高尾山の山頂で給水し、次の目的地の小仏城山へ足を伸ばした。高尾山から2.5kmの緩やかな山道が続いている。途中、急勾配が一箇所あったが、夏のロードに嫌気がさしていた私にとっては気持ちの良い負荷だった。この日は、ピストン(同じ道を往復するルート)せず、小仏峠を降ってロードに出てから高尾山口駅に向かうルートを辿った。合計で15km九〇分という軽いトレラン初体験となった。高尾山口駅にある極楽湯に浸かり湯船でセルフ整体をする。それほどロックは多くないがいつものロードランニングとは違う部位が硬くなっているのが分かった。坂を登る時に使う筋肉が多いハムストリングと脹脛が特に硬くなっており翌日の筋肉痛を覚悟した。エネルギーの消耗が激しかったのか、温泉でダウンした後の食事がとにかく美味しかった。そして、目まぐるしく変わる景色、不整地への注意、澄んだ空気などロードとは全く違うランニング環境に新鮮な喜びを感じたのは言うまでもなかった。高尾山は行き交う登山客も多いので初心者でも一人で大丈夫だと判断し、その翌週は一人で走った。さらに翌週は陣場山まで足を伸ばす縦走にチャレンジした。さすがに真夏の暑さと20kmを超える距離にバテたが、トレランにハマりつつある自分がいるのがはっきり分かった。ただ、この時はまだ本当の山の洗礼を受けているわけではなかった。

 八月下旬、四回目のトレランは高尾から離れ、初めて1,000mを超える神奈川県の大山に向かった。大山は丹沢大山国定公園に属し、標高は一二五二mある日本三百名山の一つだ。高尾を三回走って少し気が大きくなっていたこともこの遠征を後押しした。一人で行くつもりだったが、四月に入社したばかりの紅林祐哉が同行してくれた。ルートは小田急線鶴巻温泉駅から大山山頂までの13kmのピストンで合計は26kmを想定した。このルート設計が、この日のトレランを苦しく厳しい物にした。
 真夏の太陽にさらされて、メラメラとした熱気が漂う舗装道路を、登山口まで二kmほどウォームアップを兼ねて走った。すでに紅林の額には大量の汗が吹き出していた。
 「クレ、大丈夫か?」
 「はい、こまめに給水しながらいきます。」この時、私は紅林が持参している水の量を確認していなかった。これが一つ目のミス。二つ目は標高差だ。スタート地点は海抜0m。つまり、ここから1,200m以上登ることになる。高尾山は標高約600mだったが登山口がすでに標高200mほどなので登るのは400mだ。大山は高尾山の三倍の標高差を獲得しなければならない。この認識が甘かった。
 登山口からやや勾配のある山道が始まる。先はまだまだ長いので焦らずゆっくり走った。道も整備されていて走りやすい。トレランに向いているという噂通りの登山道だった。そして、序盤で弘法山に登ったのだが、実はこの山は設定ルートにない寄り道だった。これが三つ目のミス。迂回ルートがないので仕方なく登った道を下る。ここでタイムをロスしたことが焦りにつながった。ほんの少しだがペースが上がったようだったが、これが余計に体力を奪うことになる。その後は順調に走って10km地点まで来た。残りは3km。しかし、標高はまだ半分の600mだった。ここから、気の遠くなるような急勾配の尾根が待っていたのだ。走ることなど到底無理な大きな岩場や急勾配のガレ場が続く。そして、なにやら雲行きも怪しくなってきて雨がぱらつき始めた。私も滝のような汗が滴り始め、給水のピッチが上がった。紅林はボトルの残水がなくなり始めていた。すれ違う下山中の登山客に声をかけた。
 「山頂はどんな感じですか?」
 「店は閉まってて水はないよ。雨で視界も悪く眺望はゼロだよ…」
 「まずいな、水がないって…」紅林はやや困惑していたようだったが、もともと表情が読みにくいのでそれが私に伝わることはなかった。折り返しても仕方ないので先を急いだ。そこから、お互い会話もなくひたすら岩を登ること三〇分、やっと山頂にたどり着いた時は土砂降りだった。

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 「水も残り少ないし、雨で絶景は拝めないし、参ったな苦笑」
 「近くに阿夫利神社というのがあるっぽいです。そこまでケーブルカーが通ってるので駅には水があるかもしれません。」ぐったりしながらスマホをいじっていた紅林がヒットを飛ばした。
 「それ、正解だわー、クレ行くぞ!」休憩もそこそこに帰路を急いだ。必ず店があると断定し残りの体力を全て使って駆け下りた。そして、想定ルートから迂回した下山ルートを3.5kmほど下ったところに阿夫利神社下社があった。お茶屋を見つけた時は二人して歓喜した。コップの水を二杯飲んでも足らずに、この時ばかりと糖質たっぷりのサイダーを一気飲みした。少し落ち着いたら空腹感に気付き玉子うどんを掻き込んだ。紅林はすっかり食欲も失せてしまい、水分補給のみに留めていた。三〇分ほど休憩してすっかり気力を取り戻せたので、残り11kmの下り坂を鶴巻温泉駅に向かって走り始めた。帰路は少しの登り返しはあるものの、行きの走りやすさ同様に緩やかな下りで心地良かった。
 終わってみると想定より2km長い28km、休憩を含むグロスタイムは六時間という長丁場になった。軽装備で山に入るトレランは登山と違い日帰りで確実に下山しなければならない。それだけにルートの確認や水分と食料の確保、そして何より自分たちの実力を客観視しておかなければならないという重要な知恵を得た大山トレランとなった。
 大山での教訓を活かし、翌週は望月と二人で奥多摩の御前山・大岳山・御岳山・日の出山の20kmの縦走をこなした。さらに、その翌週は西尾と二人で数馬温泉から三頭山・月夜見山のピストン20kmと着実に経験値を溜めて、いよいよ日本百名山にチャレンジすることになる。(つづく)


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